04

「なにを丸まってるんだ?」

  そう尋ねる声と同時に頭の上に暖かな重みも感じたが、シャーネは顔を上げなかった。今の自分はきっと情けない顔になっている。いくら幼馴染とはいえ、そんな顔を戦場で見せるわけにはいかなかった。
 からかわれのでは、という危惧も少しあったが。
「おーい食わないのか? 病は気から、戦は腹からだぜ」
「なんだ、それは……」
 湿った声で洟をすすりながらシャーネは素早く袖で目元を拭き、ゆっくりと顔を上げた。夕食と呼ぶにはいささか質素すぎる乾パンとスープを手にしたジノは、シャーネの顔を見るやいなや、けらけらと笑う。
「新種の動物みたいになってるぞ。強いて言えば、タヌキだ」

 そういわれ、慌てて比較的汚れていない場所を探してもう一度目元を拭った。どうやら服についていた泥やら血やらも一緒に付いてしまっていたらしい。
 それはそうとして、こいつにデリカシーというものはないのかとシャーネは気恥ずかしくも恨めしい思いで、乾パンとスープを受け取る。

「ジノが騎士団一の色男だなんて信じられないよ。繊細さの欠片もないくせに。それで女心の機微がわかるのか?」
「これだからお子ちゃまはなあ。大人の女はそういうところも可愛いって言ってくれるんだよ」
「ふたつしか変わらないのに偉そうに。可愛いって、どうせ犬や猫なんかと同じに思われているだけだろう」

  そう皮肉を言いながらも、この幼馴染が確かに好意をもたれやすい人間であることはシャーネも承知の上だった。それは別に恋愛対象としてのみではなく、ゆえに男女の区別なしにジノは好かれる。
 貴族が殆どである騎士団のなかで、ジノは中流階級の出だ。史上最年少の若さで名誉騎士となったとなれば普通は妬みや嫉妬に足を引っ張られるものだが、その点ジノは無縁だった。
 ひとえにその人柄ゆえだろう。誰とでも打ち解けられるし、誰にでも親身に接する。殺伐とした戦場では誰もが心を荒ませてしまう。その中で自然に周囲を和ませる才は天性のものだ。
 そんな親しみやすさを持ちながらも、ひとたび剣を持てば鬼神のごとき闘争心を剥き出しに敵をなぎ払い、自軍に勝利をもたらす。
 その両面性が堪らないのだと言っていたのはかつて戦場で共に戦った事のある女兵士であり、少年のような奔放さが素敵だと頬を染めていたのは侍女の誰かだ。
 ちなみにそのどちらともジノは関係を持っていたと聞く。勿論、本人からではないが。噂とは身近に居る人間の耳に、特に入りやすくなっているものだ。

  こんなに女好きとは知らなかった、と不貞腐れて思う自分がしかし、それに対して何も言えないことをシャーネは知っている。
 ふたりの間でジノの恋人である誰かの話題が出たことはなく、またジノがシャーネに紹介したいと言ってきたこともなかった。というよりも、ジノは特定の誰かと付き合っているわけではないようだ。
 いわゆる遊び人。それでもいいと熱を上げる女たちの噂をきくたび、シャーネはなんとも言えない複雑な気持ちに陥る。
 理解できるような、したくないような。
 その感情に触れるたび、まるで自分のなかに誰か知らない人間がいるようで無性に動揺してしまう。
 確かに、まあ、顔も悪くはないと思う。赤茶の髪と瞳は少し珍しいし、大きい口をにっと横に開いて笑う癖もいい。そう、悪い顔では決してない。

「けど納得できないのはなぜなんだ……」
「なにが? キスも知らないお子ちゃまが一丁前に嫉妬か?」
「莫迦にするな、キスくらい知っている!」

 思わず声を張り上げてから、しまったとシャーネは顔を赤らめた。護衛として近くにいた兵士が振り向いたのを見て、慌てて顔を隠すようにスープに目線を落とす。
 さすがに今の音量では聞こえてしまっただろう。只でさえ喧騒から遠い、奥まった静かな場所だ。王の威厳も何もあったものではない。 いや、そもそもいくら幼馴染で騎士だとはいえ、こんな風にジノと話している時点でもう威厳なんてないも同然かもしれない。 でも、戦場でしかこんな風にジノとは話せないのだから、いいじゃないか。――よくはないか……。カルマにまた小言を言われるな。
 幼い頃からの教育係であり武術の師でもある男を思い浮かべ、それと同時になぜこんなことを考えているのかというそもそもの元凶を思い出して、再び顔が熱くなるのを感じる。
 もちろん、まだ経験はなかった。
 うす汚れているとはいえ肌理細かい白い頬が、刷毛で刷いたようにさあっと赤く染まる様をジノは横目で見つめ、そっとシャーネの耳元に口を寄せた。耳朶に触れるか触れないかの距離で囁く。


「知ってるの、キス」


  唐突に耳朶を振るわせた声に、シャーネは思わず肩を揺らした。
 慌てて隣を見れば、もはや自分の顔よりも見慣れた顔が驚くほど近くにあった。睫の一本一本まで正確に見て取れる距離。いつもは分かりやすいほどにくるくると色を変える赤茶の瞳だが、今は何の感情も読み取れない。
「なあ、知ってるのか」
「……しつこいぞ」
 身を僅かに引きながら、 しかし一度口に出した言葉は引くに引けず、シャーネは低く答えた。
「いつ? どこで? 誰と?」
「いつって……ずいぶん昔のことだから」
「昔って、だからいつだよ。いや、それよりも相手だ。相手は誰だ」
「ジノの知らない人だ、たぶん」
「シャーネの知ってる人間でおれの知らない奴なんているっけ」
「……いるんじゃないかな」
 冷や汗とともにシャーネが目線を外したとき、あ! とジノが眉を寄せた。
「貴族か? それなら知らないもんな。まさか、シャーネが十歳の時に結婚を申し込んできた変態親父じゃ、」
「滅多なことを言うな。その辺にいるんじゃないか? 今回の戦いにわたし側についてくれた数少ない貴族だぞ。 感謝と敬意を示しこそすれ、変態親父っておまえは……」
「『勝利の暁には恩賞としてシャーネさまを頂きたいがよろしいかな? ははは』 とか言ってたじゃないか! 大丈夫なのかよ、アレは」
「アレはきっと洒落だ」
「きっと?」
「……きっと、たぶん」
 ジノはこれみよがしに大きく溜息をつくと、食事を再開した。
 シャーネはジノが離れたことに内心胸を撫で下ろしながら、 少し面白くない気持ちでスプーンを手元で弄ぶ。
「なんだ、その溜息は」
「おまえは危機感が足りない。 本当に結婚を申し込まれたらどうするつもりだよ。受けるのか」
「受けるわけないだろう? 何を言って、」
「何でそう言い切れる? もしこの革命が起きなかったら、 おまえは確実にいずれ誰か高位の貴族と、」
「ジノ?」
「いや、なんでもない」
 力なく笑い、陛下に自分たちと同じ食事で悪いな、と呟いたジノをシャーネは鼻で笑った。
「今更。今までだって同じ釜の飯を食べてきたのに」
「今は軍師じゃなくて王サマだろ。立場がちがう」
「食料は限られてるんだ。こんなときに王もなにも関係ない」

 普段通りの口調で言い、スープを口に運ぶシャーネを見てジノは、そうかと呟き頬を緩ませた。残り少なくなったスープに乾パンを浸しながら、それにしても塩気が足りないスープだと普段どおりの口調でぼやく。それなら雑草でも食ってろ、と返しながらシャーネは今晩のことを思った。






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