05

 完全なる満月が西の空に昇った。
 他から少し離れた岩陰にあるテントの中で、シャーネはゆっくりと甲冑を脱ぎ捨てていた。濡れたタオルで顔と身体を丁寧に清め、それから黒一色の服を身に纏う。
 久々に袖を通したドレスはどこか頼りなく、着るのにも時間がかかった。艶のある漆黒の髪は先ほどまできつく結い上げられていたにも関わらず、しなやかに白い肌の上に散る。

 降服に行くとはいえ戦場で甲冑を脱ぐ事には抵抗があったが、処刑されるとすれば通常民衆の前で公開処刑にする。自らの力を誇示し、戦いの勝利を見せ付ける最短の手段だからだ。
 そのときに王家の者としてみすぼらしい格好でいることは父と母、ひいては自分についてきてくれた者たちをも辱めることだと思った。
「まあ、処刑までは牢に入れられるだろうから、結局汚くはなるだろうな」
 母親の形見でもある手鏡で自らの姿を眺め、シャーネは苦笑した。


 満月が真上に昇ろうとしている。シャーネは目元を引き締め、密かにテントを後にした。少し迷い、隣にあるジノのテントを見つめる。
 最後に顔が見たくて堪らなかったが、ああ見えてもこの国一の腕前だ。自分の気配に起きてしまうだろうことは分かっていた。起きたジノに行くなと縋りつかれたらきっと心が揺れてしまうことも、同様に。
 結局シャーネはあらかじめ書いておいた手紙を手鏡に巻きつけ、ジノのテントの前に置いた。文面には降服をする旨と、後のことは頼むとだけ記してある。
 岩陰を下りてすぐのところに黒い馬を二頭連れ、カルマが静かに佇んでいた。緻密なレースに覆われた喪服姿のシャーネをじっと見て、やはり亡くなった王妃とよく似ておられますね、と力なく微笑むカルマにシャーネは苦笑いを返す。
 馬に乗り、陣を後にしながらシャーネは真横に並ぶカルマに尋ねた。

「ところで、グルトからの使者はまだ帰らないか」
「残念ながら……」
「そうか、」

 戦いが始まるまえに同盟国でもある隣国グルトへ出した使者の顔を思い出し、シャーネは僅かに眉をよせた。必ず色よい返事を持って帰りますと、自分とそう年の変わらない難民の少年は真っ直ぐな目で言い残し、旅立った。
 本来ならば信頼性を見せるため、そして礼儀としてそれなりの地位にある者を使者に選ぶものだが、同盟国へ助けを求めることは革命軍も容易に予想できることだ。待ち伏せの可能性を考えればできるだけ顔の知られていない者の方がいい。その考えから、敢えて難民のひとりである少年に託した。
 受けたご恩をこれでお返しできますと、彼は言ってくれた。難民である彼らをこの国へ招き入れたのは自分ではなく、父である前王であるのに。

 グルトが力を貸してくれないのなら、それでいい。元々、同盟を交わしたのは前王であり、かの国の王女であった王妃もこの世を去ってから久しい。
 今となってはこの国とグルトに何の繋がりもないのだ。表立っては態度に出してこないが、まだ十代のしかも女である自分を見くびっているのだろうと察しはつく。
 むしろこの機会に攻め込んできたり、革命軍に繋がっていたりしていないだけでも幸運だ。この国と同じく、グルトは大陸三大国のうちのひとつだ。

 ――私が倒れた後に、リースと同盟を結び直そうと考えている可能性はあるがな……

 長いものに巻かれるという考え方は嫌いだが、理解はできる。そういう裏切りはこれまで戦場で散々見てきた。巷に伝わる胸躍る武勇伝など、実際の戦場ではありはしない。
 ただ願うのは、あの使者の少年が無事であることだけ。
 幼い頃に数回会っただけだが、グルト国王は少々金に汚いながらも悪くない人物だったと記憶している。手荒な扱いは受けていないと信じたい。




 戦場となった盆地の横の林を駆けていると、腐臭が鼻をついた。遺体はそれぞれで回収し日が沈む前に火葬したが、血の匂いは大地に染みこみ消えはしない。
 たくさんの人間が死んだ。こちらも、向こうも。たくさんの家族が愛しい者の悲報を聞き、泣き崩れるだろう。
 ――わたしが王だなどと……
 胸のうちで呟いたその先の言葉を、しかしシャーネは続けることができなかった。その先を己で言ってしまっては、共に戦ってくれた者たちに詫びる言葉もない。
 王冠は重い。王座は硬い。
 その重みと硬さをその身に感じながら、父は生きていたのだ。
 記憶の中の父親を思い出す。どの顔も厳しい表情ばかりで、笑った顔を思い出せない。もしかしたら自分の前で父が笑ってくれたことなど一度もなかったのかもしれない。それでも彼は父親であり、そして誇りだった。
 ふと、あの厳格さはもしかしたら生まれ持ったものではなく、後天的に身に付けたものだったかもしれないという考えが浮かんだ。自分のように。




****




「待っていたよ。親愛なる姪御どの。懐かしいドレスを着ているね」

 シャーネは何も言わず、目の前の男を睨みつけた。その視線に少し苦笑い、男は手元の剣を脇に置く。 繊細かつ煌びやかな細工が施されながら実用性も兼ね備えたそれは、王家の剣だ。シャーネの首と、 この世にふたつとない王家秘宝の剣。このふたつが、降服の条件だった。
 豪奢なテントの中にはシャーネとカルマ、一段高い位置に腰掛ける男とその護衛兵が四人居た。無論、 外にはさらに護衛兵が厳重に彼らを取り囲んでいる。

「義姉上を――シャグナさまを思い出す。そうやって髪を下ろしていると面差しがよく似ているな。 彼女はもう少し穏やかな目元をしていたがね」
「あなたに母上の名を呼ぶ資格はない。リース叔父上」
 リースは面白そうに口の端をゆったりと釣り上げた。
 おそらく端整すぎる顔のせいだろう、 その笑みがひどく酷薄に見えてシャーネの背筋に悪寒が走る。


  リースとその兄である前王は、年の離れた異母兄弟だった。ゆえにリースの年の頃はまだ三十の半ばほどだ。そして、血が半分しか繋がっていないせいか、ふたりは見かけも性質も全く異なっていた。
 兄が骨太の体格がいい典型的な武人型だったのに対し、弟のリースはどちらかというと細身な文官型で、武人というよりは舞台役者か吟遊詩人といった方がより近い。実際は兄ほどではないとはいえ武術の腕前は並以上だったが、リースは剣よりも口で相手をねじ伏せることを好んだ。
 また、兄が己を律し他人を諭すことに長けていたのに対し、リースは己を飾り他人を鼓舞することに長けていた。 端整な容姿は誰をも魅了し、口からでる言葉は確かな説得力で人を惹き付ける。 存在自体が一種麻薬のような男だと、苦笑まじりに評したのは前王自身でもある。
 実際に当時、 民衆には兄よりも弟のリースの方が人気が高かったという。おそらくこれらの点を考慮していうならば、 王としての資質のみを問う場合リースの方がその才があると言えるかもしれない。

 だが、とシャーネは目の前の叔父を見すえながら考える。
 だが、王としての資質などむしろない方がいいのだ。なまじその才を持つ者は才に溺れ、他人を支配できると思い込んだが最後、奈落の道を往く。
 完璧な王など居はしない。人は完璧にはなれないのだ。必ずどこかに綻びは生じる。
 王に求められる資質があるとしたら、ただひとつ。
 民を憂い、思いやり、慈しむこと。
 そんな根本的なことに目の前の男は気づいてはいない。






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