ジノが、自分のことを好きだった。その事実は甘く、そして幸福だと思えた。
何もかも余分なものを沈殿させ、ただ事実の上澄みだけを掬い上げれば、確かにそれを喜びと感じている自分がいた。
「なんで……なんで言ってくれなかったんだ」
「言ったところで、乳母の息子となんて無理だろ」
「そんなもの、わからないじゃないか」
「無理だ。シャーネだって知ってるはずだろ。不可能なんだよ、そんなこと」
「そう、不可能。だからその風習と共に王家を潰すほかなかった」
ふいに割り込んできた単調な声に、シャーネは弾かれたように身を竦ませた。声は呟きに近いほどの大きさだったが、いつの間にか頭に立ち込めていた靄を晴らすには充分だった。
次第に思考が動き出す。ここが何処で、自分は何者で、そして今の言葉の意味を。
「風習と、ともに?」
「さて、もう睦言は済んだかな。若さとは全くもって羨ましい限りだが、後は事が済んでから存分に語らってくれ」
「風習と共に王家を潰すしかなかったと、そう言ったな」
「言ったかな? 覚えがないが」
「確かに言った。ジノ、おまえはどこからこいつに加担していたんだ? 一体いつから……」
「もう正気に戻ったのか。見上げた精神力だ。さすが我が姪御というべきか」
「貴様は黙っていろ! …ジノ、いつからだ。答えてくれ、ジノ?」
いまだ抱きかかえられた体勢でジノの頬を両手で包み、シャーネは必死に問いかけた。頭はさっきまでの靄が嘘のようにクリアになっていた。どこか不吉なほどに、澄んでいる。
今までのジノとリースの言動が頭の端々で点滅しては、形をつくってゆく。しかし、それが完成するのをシャーネはひどく恐れていた。ジノに答えをせがむ反面、その口を開いてくれるなと半ば恐怖しながら祈っていた。
『父上はかつてこの国一と謳われた武人。彼を殺せる腕前を持つ駒を手にしていながら、わたしを殺さなかった理由はなんですか』
『彼は実によく働いてくれたよ』
『おまえを誰にも渡したくなかった』
『だからその風習と共に王家を潰すしかなかった』
「ジノ、頼むから……」
「もう彼女は気づいている。言われる前に自分から言ったらどうだ」
「おまえは黙っていろと」
「最初からだ」
リースに向けて怒鳴りかけたシャーネを遮り、ジノが低く言った。
「最初からだ。前王はおれが暗殺した。忠誠の誓いを破って」
自分を見つめる赤茶色の瞳を、シャーネは初めて見る気がした。
自らの目よりも見慣れているはずなのに。
自らの目よりも見続けてきたはずなのに。
こんな目をいつからしていたのか。いつの間に、瞳にそんなモノを宿した?
わたしに気づかれず、ひっそりと。
そんな深く暗いモノをおまえはずっと育ててきたのか。
狂気を。
「まあ、君を殺さなかった一番の理由はそういうことだ。彼への報酬はシャーネ、君だからね。前王を暗殺できる腕前を持つ者は国内でも有数だ。しかしまさか国内どころか近国一の腕前を誇る騎士どのを引き入れられるとは思わなかったよ。わたしはつくづくツイている男らしい」
「……では、処刑は、」
「民には王女は戦死したと伝えるよ。少々インパクトには欠けるが仕方あるまい。よかったな、君は死なずに済む。ただし勿論、王族であることと、その麗しい名は奪わせてもらうよ。シャーネ・ラウル・シェルロットはこの戦場で死んだ。これからはそこの彼の名を受け継いで」
つまらなそうに淡々とリースが話している、その途中だった。
先ほどの護衛兵のひとりがテントの中へと駆け込んできたのは。
蒼白の表情で、息を咳き切っている。
「申し訳ありません、急を有する事態が」
「何事だ」
瞬時に状況の変事をさとったリースが鋭く護衛兵に尋ねた。
「はっ。それが王家の軍勢が攻め込んで参りまして・・・・」
「愚かな。王を取り戻しに来たのか? 数はこちらが優勢だ。陣を組んで応戦しろ」
「いえ、
それが……王家の旗に混じってグルトの国旗が……」
「グルト? どういうことだ、使者は始末したはず。確かなのか?」
「た、確かです。
どうやら寸でのところで誰かに伝書を託したようで、」
「……なんて無能な」
侮蔑感をあらわに眉を寄せたリースにひたすら頭を低くしながら、兵士は舌をまごつかせていた。明らかな恐怖が玉の汗となって額に浮いている。
耳を済ませてみれば、すでに馬のひづめと軍勢の怒声が微かに聞こえている。最終攻撃のつもりか、離れたこの場所からでもその壮絶とした勢いを感じて取れた。大気が振動しているかのようだ。ここまで辿りつくのに、そう間はないだろう。
「……手練の者を集められるだけ連れてこい。至急だ」
リースが地を這うような声で指示を出すと、護衛兵は逃げるようにテントから飛び出していった。
シャーネはジノの腕の中で、使者として送った少年のことを思い返していた。必ずよい返事を、と言って旅立った少年。
彼は勤めを果たしたのだ。奇跡のような話だと思った。伝書を読んだグルト国王が出兵したことも。このタイミングで攻めてきたことも。
しかし、今のシャーネにとってそんなことはどうでもよかった。それよりもさっき聞いた事実に心と思考を奪われていた。
殺した。ジノが父上を殺し、この革命の幕を開けた……――。
シャーネは意識を手放した。
「どうやら状況が変わったらしい」
「そうらしいな」
先ほどまでの余裕に満ちた表情から一転して無表情になったリースを見据え、ジノははっきりとした発音でそう返した。
警戒心をあらわに、意識を失って人形のように弛緩したシャーネを強く抱きしめる。
「騎士どのには悪いが、
こうなった以上シャーネの首を一刻もはやく晒す他、勝利するすべはない。グルトが出しゃばったとなればこちらは不利だ」
「話がちがうだろ。それじゃおれは忠誠を破り、王をこの手にかけた意味がない」
静かに、
しかし確かな怒りをこめて答えたジノを見て、リースは腰元の剣を一気に抜いた。それと同時にジノも自らの剣を抜く。
しかし、僅かに遅れた。
不幸だったのは片腕にシャーネを抱きかかえていたからであり、
鞘から剣を抜くときに彼女を傷つけることを一瞬恐れたからだった。
「これで近国一とは笑わせる」
肩をざっくりと斬られ、苦悶の表情でジノは膝をついた。それを見下ろしリースが低く笑ったのと、
テントの入り口から護衛兵が入ってきたのは同時だった。
ざっと数えただけで十人ほど。後ろにまだ居るようだが、
中にはまだ入って来ていない。というよりも入れないのだろう。テントはそこまで大きくない。
狭い空間で無闇に剣を振り回しては、味方同士を傷つける恐れがある。
目を閉じたままのシャーネを片手に抱き、
ジノは剣を握り締めた。斬られたのが利き腕でなかったことは、不幸中の幸いだった。
「お荷物は捨てたらどうだ? どの道その子はもう君のものにはならない。最も信頼していた人間に父親を殺され、
裏切られたことを知ったのだから。ふたり仲良く死んだ方があの世で幸せになれるんじゃないか?」
「ずっと言いたかったんだけど」
そこで言葉を切り、
ジノはこの上なく不遜な笑みを浮かべた。
「ガキの頃からあんたが大嫌いだったよ。あんた、ずっとシャーネを見てただろ。
王妃が死んでから、ずっと。最初からこいつをおれにやる気なんか毛頭なかったんじゃないのか?」
「なんの話だ?」
「しらばっくれてんじゃねえよ」
からかうような口調で、
しかし嫌悪感と憎しみをむき出しに睨みつけるジノをリースは氷のような目で見下ろし、
それから戸惑ったまま動けずにいる兵らに、殺せ、と低く命じた。
いくつもの刃が、ふたりの身を食らおうと迫った。