最初に目に映ったのは、銀色に光る剣の切っ先だ。その奥にいる人物に焦点をあわせ、
シャーネは乾いた喉を震わせて声を発した。
「叔父上」
「シャー、ネ?」
ジノが呟き、腕の中のシャーネの顔を覗きこむ。
シャーネは血だらけのジノを見据え、そしてすっと立ちあがった。
リースの剣の切っ先が彼女へと移動する。
「ようやくお目覚めか? 眠り姫。眠っていたままの方が楽だっただろうに」
「昔から思っていたんだが、あなたの話し方は芝居がかっているな」
シャーネはリースを油断なく見据えながらゆっくりと腰を屈め、死んだ兵士の手にあった剣を手に取り、構えた。まだぬくもりがある。
「昔、役者を志していた時期があってね。あえなく断念したが」
「なっていればよかったものを。あなたの手にその剣はふさわしくない」
リースの握っている王家の剣を顎で指し、シャーネは耳をすます。戦闘の声はかなり近いものの、まだ今ひとつ遠い。
グルトの軍がここにたどり着くまで時間かせぎができるかどうか……。
「それはどうかな。直系ではないとしても、わたしにも王家の血は流れている」
試してみるか、と鋭い声とともにリースが先に斬りかかった。
――突きがおそろしく速い。
思わず目を見張ったシャーネの横で、黒髪が何本か千切れて落ちた。あと一瞬遅ければ頬を抉られていただろう。
女性特有の柔軟さを利用して、身体を捻った状態でシャーネはリースの脇を狙う。剣先はあっさりと払い落とされ、一瞬の間をおかずに肩から縦に斬りかかられる。後ろに飛んで避けたが黒いドレスは一直線に切れ、皮膚に薄く血が滲んだ。
「伊達に戦場を走り回っていたわけではないらしいな」
「あなたも戦場から離れて久しいわりには、なまっていないようだ」
硬い口調でそう返し、リースの腰に斬りつける。柔らかな動きを伴った風のような鋭い一閃はしかし、リースが後ろに飛んだことで宙を斬った。
確かにそこそこの腕らしい。間髪いれずに追い、首もとのスカーフを剣先で抉った。だが今ひとつ浅く、
シルクのスカーフだけが清らかな白さを保ったまま地面に落ちた。
手首を狙って新たなる一撃を繰り出す。硬質で甲高い音と共に剣先は合わされたが、あっさりと横に払われる。
その勢いに身体がぶれ、咄嗟に足を踏ん張ろうとしたのがいけなかった。
さっき剣を拝借した兵士のマントに滑ったのだ。血を吸いすぎた布は摩擦係数を増している。片足がずるりと横に滑り、シャーネはそのまま片膝をついた。
体勢を崩したシャーネの隙を逃さず、リースが剣を振り上げる。
シャーネが振り下ろされようとする切っ先に目を開いた。
その瞬間。
リースの片頬に鈍い音を立てて、何かが当たった。息も絶え絶えながら、注意を引こうとジノが咄嗟に懐から投げたのだ。
もくろみ通り、リースの目線がジノに向こうとしたとき、頬に当たったものが足元できらりと光った。それを視界の端に入れたリースの動きが止まる。
柔らかくランプの光を反射していたのは、シャーネが文と一緒にジノのテントの前に置いた手鏡だった。
『リース』
記憶の底から浮かび上がってきた声は、濁流のようにリースの意識を奪った。
まるでつい昨日聞いたかのように、色褪せないその声。
甘く、優しい、春の陽だまりのような柔らかい声。
『リース。そうやって本心を隠しても分かる人には分かるものよ。
現に、あなたが本当はとっても優しい子だってこと、わたしはちゃんとお見通しなんだから。
さあ、ちょっとお茶を飲んでいきなさいな』
そう言って悪戯っぽく笑った彼女。距離は近くても、自分とはまったく違う世界を見ていた人だった。
何かと構ってくる彼女はいつも落ち着きなく動き、笑い、泣き、憤っていて。豊かに溢れるその感情は惜しげなく他人にも注がれた。
最初に一目見ただけで、すぐにわかった。自分とは正反対の場所に居る人間だと。正直、
最初はその溌剌さを疎ましく思っていた。
『初めまして、リース。嬉しいわ、わたし末っ子だったからずっと弟が欲しいと思っていたの。これからよろしくね。
ところでちょっと聞きたいんだけれど……あの、お手洗いはどこにあるのかしら? だってこの城は広すぎるんですもの』
だけど次第に惹かれていった。他の誰もがそうであるように。
『ねえ、聞いた? 市場に異国の雑技団が来ているんですって。宙に張られた縄の上で飛んだり踊ったりするのよ、
すごいわよね? 見たくない? 明日、一緒に行きましょうよ。だって、あなたが付いてきてくれれば陛下だって文句は仰らないわ』
別に恋愛感情だったわけじゃない。そんなものじゃない。
ただ、側にいてくれればそれでよかった。
側にいて、奥深く抱えた闇を淡く照らしてくれるだけで。
『信じられないわ、驚かないでよ……実は赤ちゃんができたの。ねえ、名前は何がいいかしら? もし女の子だったらリースが決めてくれない?
あら、だってあなたは女性の名前をたくさん知っているじゃない。凛としてて自由な響きの、素敵な名前をつけてちょうだいな』
彼女の世界はいつも光に満ちていて、彼女の側にいるだけで、他愛無い言葉を交わすだけで、自分までも同じ世界の住人になれた気がした。
――今はもういない、触れることすら一度も叶わなかった、愛しい人。
遥かな過去に心を奪われていたのは瞬きをするほどの間だったが、それで充分だった。シャーネの剣は正確にリースの喉元を裂き、彼は声もなく地面に崩れ落ちた。
最後に脳裏に過ぎった微笑みの行方は誰も知らない。