10

「……なんでも懐に、入れておくもんだな。貧乏人でよかった、」
「へらず口は後で聞いてやる。とりあえず止血だ、腕を」

 力なく笑ったジノを叱咤し、駆け寄ったシャーネは自分のドレスを八重歯で切り裂いた。両膝をつき、ぐらぐらと頼りなく揺れるジノの背中に手をあてながら止血の布を巻こうとするが、余りにも傷が多すぎてどこから手をつけていいのか一瞬迷う。
 その手をジノがやんわりと握った。口の中の血を地面に吐き出し、掠れた声で囁く。

「いいんだ、いくつか急所をやられてる。たとえ助かっても、もう騎士として食っていくのは無理だ」
「なら、 わたしが養ってやる。手をどけろ」
「それはちょっと、格好悪いなあ」
「格好悪くても何でもいいから生きろ!」

 押し殺した声で怒鳴り、シャーネは黙々と布を巻き始めた。だが出血はとめどなく、巻いたそばから血が滲んでくる。
 どれだけ血の気が多いんだ。これ以上出てきてくれるな。お願いだから、
 胸中で叫べば、更に焦りと苛立ちが募る。

「なあ、やっぱり駄目だ。おれは騎士の誓いを破って、みんなを裏切った、とんでもない極悪人なんだから」
「おまえが極悪人なのは今更だ。 何度もわたしの湯浴みを覗いていただろ」
「すごくガキの頃の話だろ、それ。十三を過ぎてからはそんなこと、してない。……だってさ、触れちゃいそうで、怖くなったから」

 切れ切れに言葉を紡ぎながらゆるく笑ったジノをシャーネは見つめ、それからそっと唇を重ねた。 ジノの唇は血の気を失い冷たく、一瞬とまどったように波打ったがすぐに穏やかに凪いだ。咥内に錆びた鉄の味が広がり、 今この瞬間にも流れ出ている命をシャーネは想った。嗚咽が漏れ、震える涙があふれて頬を伝う。
 泣きじゃくるシャーネの頬に、硬い指先が触れた。血に塗れたジノが涙をぬぐっている。透明な涙に朱が混じり、赤くなった涙は顎へと伝った。

「今日、泣くのって二回目だな。明日は、雪かも」
「ジノ……わたしはおまえと、 離れたくなくて軍師になったんだ。一生懸命、勉強した。剣では、側にいれないから。普通の皇女のままでは、 おまえと一緒にいられないと思ったから」
「うん」
「王の娘なんかに、生まれてきて、ごめん」
「うん」
「おまえのこと、気づけなくて、ごめん」
「うん」
「死なないで、」
「うーん…」
「うーんじゃないッ! 死ぬな!」

 腑抜けたように唸ったジノの胸を拳で叩き、シャーネは泣き叫んだ。呻いたジノに慌てて謝罪の言葉を口にして顔を上げる。ジノは痛みに顔を顰めながらも、心底幸せそうな顔で笑っていた。

「なんか、今ので充分かもしれない」
「充分? 死ななかったら、あんなこともこんなことも出来るぞ」
「はは、それは魅力的だけど」
 でも、とジノは目を伏せた。
「無理だよ。自分の尻は自分で拭かなきゃならない。シャーネも、わかってるだろ? この先一生、 きっとおまえはおれを許せない。おれの知ってるシャーネは、そういう女だよ」
「そうわかっていたのなら、なんで」
「魔が、差したのかな。なまじ力を得ちゃったからさ。 あの男に話を持ちかけられたとき……ぞっとしたけど、おれはすぐに乗った。本気で、おまえを死んだことにして、 どこか小さな村で一緒に暮らすつもりだったんだ。全てを隠して、騙したまま」

 そう力なく笑ってジノは甲冑の隙間から剣先をいれ、自分の左胸に当てた。
 シャーネは赤くなった目元を歪め唇を震わせて、何か言おうと思ったが声は出なかった。喉が急速に干からびたかのようだ。しかしそれとは別に、自分が何も言えないことを理解していた。
 本当は、止めたかった。子どものように泣き喚いて、駄々をこねて、知りうる限りの言葉を尽くして引き止めたかった。
 けれど出来なかった。自分が逆の立場だったらそうしたであろうことを知っていた。ジノが犯した罪は決して許されることではなく、自分の背に負っているものの重さもあった。
 滅多に笑うことのなかった父親。
 生きていくということは、こんなにも不自由で雁字搦めにされていることなのか。
 幼い頃は違ったはずだ。世界はもっと単純で、幸福なもので出来ていた。
 けれどもう、逃げないことを選んでしまったのだ。

「謝りたいことはたくさんあるけど、ありすぎて全部いえない。とりあえず陛下と、死んだ仲間には、向こうで謝る。会えない確率、高いけど。おまえには――」

 ジノは目をきつく閉じ、それから開けた。
 その目に、シャーネは幼い日に熊と遭遇したあの時のことを思い出す。
 赤茶色のまっすぐな目。馴染み深い、強い意志と慈愛の込もった瞳。

「おれを恨んでくれ。けど、忘れないで」







 息を咳き切ってテントに駆け込んだカルマ・バールが目にしたものは、夥しい死体と、テントの天幕にまで飛び散った赤黒い血と、そのなかにぼんやりと座り込むひとりの少女の姿だった。
 腕の中には既に息を引き取った青年がいて、それは彼女にもっとも近く、またもっとも長い時間を共に過ごしてきた人間だとすぐに知れた。
 側に寄ったカルマの気配を感じてか、シャーネが口を開いた。
「こいつに教えてやるのを忘れていたよ」
 少女は涙の跡をくっきりと頬に残したまま、呟いた。
「騎士の甲冑が黒いのは、王の意志以外のものに染まらないためだって」

 青年の頬をそっと撫で、そしてシャーネは立ち上がった。
 その手に王剣を携え前を向いた彼女の顔は既に、王のそれであった。






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