11 [ Epilogue ]

 シャーネ・ラウル・シェルロットはその後、二十五歳で結婚し王子をひとり授かる。異例のことではあるが、結婚したのちも玉座にとどまり賢王として名を馳せ、史上初の試みである三大国同盟を結んだ。
 東のシェルロットと、広大な領土を持つ南のグルト。そして、長年完全なる自治体を築いていた北のヴァースという中央大陸三大国の同盟により、流通は目覚しい発展を遂げた。近隣諸国もその恩恵で潤い、難民問題もじきに解決を迎えることとなる。
 そして三十九歳の若さで、国民に惜しまれながらもこの世を去った。
 その日は空が晴れ渡った、うららかな初春のことだった。




「ジノ、ここへ」
 穏やかな声に呼ばれ、少年は読みふけっていた本から顔を上げた。椅子から腰をあげ、ベッドに横たわる女の顔を覗きこむ。
「どうされましたか、母上。お水でしたら持ってきましょうか?」
「いや、いい天気だな。 身体を起こしたいのだけど、手伝っておくれ」
 そう笑いかける母親とよく似た顔立ちの少年は、艶やかな黒髪を揺らせて、もちろんと頷いた。そっと背中に手を差し入れ、ゆっくりと起こしてやる。シャーネは白い絹のカーテンを揺らす風を頬に受け、少し目を細めた。ふと少年の手にある本を見て苦笑する。
「またその本か。おまえは本当に、よく飽きないものだ」
「当然です! ぼくの名前の由来となった伝説の騎士のお話ですから」
 誇らしげに頬を赤くした彼を見てシャーネは頬を緩め、それから本の上にある少年の手に手を重ねた。
「そんなにその騎士がすきか?」
「はい。ぼくもいずれは彼のように強く、誇り高い騎士になるんです」
「王子が騎士になりたいか……まあ、止めはしないよ。おまえの人生だ」
 臆面もなく言った少年にシャーネは呆れながらも幸福な笑みを浮かべる。
「おまえに渡したいものがある。そこの戸棚の奥にある黒い箱を取っておくれ」
 少年は小首を傾げながらも彼の両手より少し大きい黒い箱を抱えて、再びベッド脇の椅子に腰掛けた。箱は軽く、しかし蓋には小さな錠前がついている。
「何が入っているのですか?」
「本だ」
「本……それにしては厳重なんですね」
「特別な本だからね。この世にひとつしかない」
 そう言いながら、シャーネは首にかけた金のネックレスから小さな鍵を外した。その鍵を彼女が肌身離さず首にかけていることを承知していた少年は、期待に心を躍らせる。
 白魚のような手がそっと鍵を回し、箱を開いた。そこには少年が持っている本よりもやや厚い、一冊の本が納まっていた。
「ところでジノ、おまえは今年でいくつだったかな」
「母上! 息子の年くらい覚えてください、来月で十四になります」
「そうか。では、これをおまえに」
 黒い革表紙に白い糸で百合の刺繍が施された本を手に取ると、シャーネは少年の手にそれをそっと乗せた。少年は上気した顔で本の外側をつぶさに眺める。
 不思議な本だった。タイトルもなければ著者の名前もない。
 さっそく開こうとする少年の手を、白い手がそっと押し止めた。
「この本は、そうだな、おまえが十八になったときに読んでほしいんだ。その時にまだ、かの騎士を誇りに思うのなら読んでもいい」
「なぜ、十八なのですか?」
「それを書いた人間が十八だったからさ。約束できるか?」
 少年は唇をきゅっと引き締めしばらく思案気に唸っていたが、やがて顔を上げるとはっきり頷いた。その意志の強い瞳に、シャーネは満足そうにゆるりと口角を上げる。
「約束だ。母と息子の約束」
「はい!」
 溌剌とした返事に満足したようにシャーネは頷き、やはり水を頼むと少年に言いつけた。彼は大事そうに本を胸に、部屋を飛び出してゆく。



「おまえが見たら怒るかな、あの本」
 呟き、シャーネは可笑しさを噛み締めた。
 『誇り高い騎士』が子どもの頃にしでかした悪戯や、失敗などがたくさん詰められている本。自分たちの歴史をつづった本。けれど、最後の一晩のことは書いていない。誰もが知っている、伝説の騎士の最後の夜。その真実は隠されたまま。
「おまえを、『誇り高い騎士』として後世に名を残したことが、 わたしにとっての復讐だよ。ジノ」
 あの世で恐縮し、 出会う人間人間に頭を下げているであろう様子が目に浮かぶ。ざまを見ろ、と思う。
 ジノのしたことは、決して許されることではない。けれど、あれはいわばシャーネも共犯だった。自分の疎さと甘えが少なからず原因となり、もたらされた結果だ。
 あの戦いが終わった後、騎馬隊長はシャーネに報告した。あの晩、ジノが手鏡に巻きつけた手紙をたずさえ、訪ねて来たのだと。その時、騎馬隊長はグルトからの援軍部隊の指揮官と面談していた。それにも関わらず、ジノは彼を訪れ、手紙を見せたのだ。
 自分はすぐに後を追うから、用意ができ次第出兵してくれ、と。
 手紙を見せずにいれば誰もシャーネが夜のうちに降服に行ったとは知らず、おそらく出兵は翌日となっていた。 思惑通りになるはずだったのだ。
 最後の最後で、ジノは自らの道を決めていた。それが答えだった。



 シャーネは再び身を横たえ、疲労感に目を閉じた。
 春一番がカーテンをかき乱して部屋に入る。ふと顔に影が落ち、まぶたを上げた。
「よう」
 窓の前、すぐ横に立っている人物を見て、シャーネはゆるく微笑んだ。
「何てものを次期国王に渡したんだ。恥ずかしいだろ。大体、おまえも同じようなことをしてたくせに」
「わたしのところは少し脚色したよ。美しく聡明な母親像を壊すわけにはいくまい」
「母親ね。確かにすっかりおばさんになっちゃって」
「……おまえ、やっぱり騎士団一の色男というのは嘘だったんだろう」
「まあ、心配するなよ。向こうじゃ年なんざ自由に変えれるからさ」
「便利だな。ところで、やっぱり迎えに来たのか?」
 そう尋ねると、ジノはふんわりと笑ってシャーネの手をとった。
 感触はないが、お疲れ、と囁く声は確かに聞こえる。
 その響きの優しさに泣きそうになった。
「ああ、そうだ。行く途中に、旦那に別れを告げなよ。これからはおれのものですって、おれも挨拶しとこう」
「本当に、莫迦だよ。おまえは」
「ひとり息子におれの名前をつけたくせに」


 少年が水差しを手に戻ってきたとき、女王はベッドの中で静かに目を閉じていた。
 微かに微笑んでいるかのように見えて、少年はそっと声をかける。
 うららかな春の日のことだった。






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