それでも大抵において、垂火《たるひ》恭平との関係は達朗にとって悪いものではなかった。
からかわれることは多々あれど、
こっちが本当に激昂するところまでは踏み入ってこないし、本の趣味もあう。
一ヶ月ほどの時間がすぎて達朗が確立した垂火の人間像は、そつがなく、世慣れしていて、物の見方がひねくれているということ。
いくら家庭教師といえど教えを受ける立場であることに代わりはないのだが、垂火はその点まったく気兼ねのない相手だった。
授業は厳しいものの、今まで分からなかったものが分かるということは楽しくもある。
兄がいたらこんな感じだろうか、と兄弟のいない達朗は少しだけ思った。
「ところで今週の土曜、何してる?」
八月も残すところ十日ほどになった頃のことだ。授業のあとで唐突に垂火がそう訊いてきたので、
達朗は「は?」と首をかしげた。
「お前さー、その『は?』っての止めたら。
いいたかねーけどアホっぽく見えるよ……」
「じゃーいうなよ!!」
「絵とか興味ある? 明日、知り合いの個展の初日なんだよ。
よかったら行ってやって。記念すべき初出展だし」
「あんたと?」
「俺が行けねーから頼んでんの。
ちょろっと顔出して、面白くなかったら帰っていいから」
「それって俺が行く意味あんの?」
「さあ。でも、面白かったら一言声かけてあげろよ。喜ぶよ、たぶん」
「誰に? え、その画家に?」
「受付のねーちゃんに声かけたいんだったら、そうしろよ」
呆れた顔で垂火は鞄からチケットとパンフレットを取り出して机のうえに広げた。
最初のページに見開きで載っている絵を見て、達郎は一瞬息をのんだ。
暗く濃厚な紅色のキャンパスに、竜のような銀色の曲線がのたうっていた。
【 Innocent Gender 】
イノセント・ジェンダー……無垢な性?
胸のうちで直訳して、その不思議な響きに達郎は少し興味を覚えた。
この時、垂火と彼女が抱えていた問題をもちろん達朗は知らなかったが、知っていたところで何ができたとも思えない。
なぜなら子供だったからだ。おそろしく未熟で、人の感情というものがどれだけ豊かで複雑なものなのか想像すらしていなかったからだ。
高校二年の夏から三年の夏までの一年間。あの出来事の全てがたった一年の間に起こったという事実が、
今でも信じられないときがある。凝縮された時間のなかで多くを知ったようにも思うが、
実際に学んだことはほんのいくつかでしかなかった。
愛情に欠乏している人間がどんなに孤独なのかということ。
誰かを理解したいのならば、まずは自分の心を開いてみせること。
人生は甘い砂糖菓子で出来てはいないこと。だからこそ光を見出すこと。