04 - [ 2004年8月 II ]

 その朝、垂火恭平はこのうえなく機嫌が悪かった。というのも、夢見が最悪だった。 培養液のような生ぬるい水のなかにいて、底には世にも不気味な容貌の魚が横たわっていた。 牙の生えそろった口をパクパクと必死に動かし、そのたびに膨れた腹がゆれる。まるで溺れているかのようだった。
 これは、俺だ。
 そう垂火は直感した。醜悪な姿をさらして、それでも生にしがみついている。



「寝起きにため息とかつくなよ。傷つくわ〜」
 夢の余韻を引きずりながら煙草を吸っていると、いつの間に起きていたのか、市川圭輔がわざとらしい泣き真似をしてそういった。 キモイよ、と的確なアドバイスをしてやってから、ため息をついたつもりはなかったので垂火は首を横に振った。
「嫌な夢を見たんだよ」
「どんな?」
「気持ち悪い魚になってる夢」
「胡蝶の夢ってやつ? 魚だけど」
 知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを――。
 ずっと昔に教科書に載っていた一部分を思い出しながら、垂火は紫煙を吐き出した。
「まあ、 忘れろよ」
 と、市川は軽く笑った。
「夢なんだから」
 そうして自分も煙草を取り出して、火を点けた。 しばらく並んで煙草を吸っていたが、お互いなにもしゃべらなかった。大学時代からの付き合いになるがこうやって近い距離にいても、 となりの男が何を考えているかなんて見当もつかない。新妻のことかもしれないし、仕事のことかもしれない。
 フラットな関係はいい。煩わしい人間関係を全てチェス盤のうえに綺麗に整理できたらどんなに楽だろう? そんなことを考えながら、 垂火は煙草をもみ消してベッドから起き上がった。


「朝飯作ろうかな」
「俺の分もよろしく」
 ちゃっかりとそう要求してから、市川は浴室へと向かった。
 冷蔵庫を開け、メニューを考える。自分で言うのもなんだが、料理の腕はなかなかのものだと自負している。 とある欠食童子の世話を昔からしていたこともあり、レパートリーも幅広い。 ついでに凝り性なので、食パンだけとか、米だけとかは許せない。
 パンを食べるのならば栄養のバランスと色合い的に玉子焼きとサラダとヨーグルトが不可欠だし、 米を食べるのならばみそ汁と漬物、そして旬の焼き魚なんかも不可欠だ。 インスタントなんてもっての他だし、ファーストフードは人類の敵に等しいと思う。
 そんな自分を見て、古い付き合いのとある欠食童子はいつも、面倒くさい奴にしてごめんね、という。 お前のその胸は誰が育ててやったと思ってんだ、と垂火は返すことにしている。
「ししゃもと……あ、クソ、納豆ない」
 材料を冷蔵庫から出していると、テーブルに置いてあった携帯が点滅していることに気がついた。 見ると、着信が一件。時間はなんと、午前三時だった。
 垂火は出したばかりの卵とししゃもを冷蔵庫に再び仕舞い、服を着替えた。
「あれ、俺の朝飯は?」
「“俺の”朝飯な」
 バスルームから出てきた市川は放っておいて、垂火は携帯を耳に当てた。が、相手は電話に出ない。 まだ寝てるらしい、と判断して垂火が電話を切ると、その様子を横で見ていた市川がにやりと笑った。
「今の電話、当ててやろうか。例の画家だろ? 一ノ瀬時子」
「なんでちょっと楽しそうなんだよ。どうでもいいけど、お前どうする?」
「お前らの関係って興味深いよなァ。まさか恋人ってわけじゃないんだろ?」
「じゃ、俺は出るから。お前は徒歩で帰りなさいよ」
「すいませんでした! せめて駅までお願いします」
「三分な」
 市川が身支度を整えている間、垂火はキーケースと財布と携帯だけをポケットにつめた。 そしてもう一度、フラットな関係ね、と考えた。
 笑える話だ。そもそも煩わしい人間関係を引き起こしたのは、そしてそれに甘んじているのは、どこのどいつなんだ?




 高島屋付近で市川を下ろし、山手通りを中野方面へと走らせながら、垂火はいくつかのことを考えていた。 ひとつは今会いに向かっている人物のこと、もうひとつは最近新しく受け持った生徒のこと。 それぞれがいい具合に厄介だった。
 大通りから一本横道へそれ、さらに路地へ折れるとつきあたりに青々とした緑が目を射す。 垣根がぐるりと周りをおおっている和式の一軒家につくと、 垂火はダークグレーのアストンマーチンを無理やり玄関まえのわずかなスペースに押し込み、 キーケースを取り出した。 鍵は三つあって、ボタン式のは車の、大ぶりなのは自宅の、そして残るひとつはこの家の合鍵だった。
 『一ノ瀬』と彫られた石の表札を横目に、ガラス戸を開ける。立て付けの悪い引き戸は、 無遠慮にガラガラと音を立てた。廊下を進み、茶の間と炊事場を過ぎ、もっとも奥まった和室のふすまを開けると、 ツンとした油絵具のにおいが鼻腔をつく。もう何日も換気していないに違いない。
 十五畳ほどの部屋には数え切れないほどの紙と、絵の具と、切り裂かれた油絵が落ちていて、 切り裂いた当の本人は部屋の隅でブランケットにくるまっていた。
 垂火は空のイーゼルを一瞥してから、足元の哀れな絵にしばし目をとめた。何が気に食わなかったのか垂火にはもちろん分かるはずがないし、 切り裂くという暴力的な行為も理解しかねた。が、あえてそれを口に出すような愚かなことはしない。
 芸術家の中身を探ろうとしてはならないということを、時子と出会ってから今までの間に垂火は学んでいた。 彼らは一様に、魂を削って作品を生み出す。うかつに手を差し込めば鋭いナイフで指を切り落とされるだろう。
 彼ら自身が望む望まないにかかわらず。



 床に散乱する紙(不可解な模様がびっしり書かれている)の隙間を縫って時子に近づき、 垂火はしばらく寝顔を見つめた。 寝顔だけは昔とまったく変わらない。
 赤ん坊みたいだ、と垂火が考えたと同時に、気配に気づいたのか一ノ瀬時子がうっすらと目を開けた。 もしかしたら最初から寝てなんかいなかったのかもしれない。
「たるひ?」
 そう呟き、腕をのばしてくるのを見て、垂火は少し安堵する。 昨日までに比べると、ある程度は落ち着いているようだ。
 だが、腕が垂火の首に届こうとしたとき、マリファナの匂いが鼻を掠めた。 ほんの微かな、瞬きすれば消えてしまう程度だったが、独特の匂いなのですぐに気づく。 改めて時子の顔を見れば、寝起きということを差引いたとしても、まるで酩酊しているかのように目の焦点はあっておらず、 少し充血していた。
「また吸ったの」
 確認として尋ねると、伸ばしかけていた腕がすっと床に落ちた。 分かりやすい答えだ。垂火は立ち上がると縁側沿いの戸を勢いよく開け放った。とたんに白い朝日が入り込み、 部屋全体が白光する。だらしなく投げ出された時子の腕を見て、人形の腕だ、と垂火は思う。 青白く、細い。赤い血が流れているなんて信じがたいほどだ。
 だらりと寝転がったままの腕を足でつつくと、今度は足に巻きついてきた。ぶらぶらと左右に揺らすたび、 細い体も一緒にゆれて、垂火は思わずちょっと笑った。
「朝飯作るけど、なに食いたい?」
 時子はうっすらと目を開けた。
「食欲ない」
「フレンチトーストは?」
「うーん……」
「外カリカリで中ふっくらで、クリームと桃が上に乗ってるやつ。 好きだろ」
 すると時子は何度か目を瞬かせてから、うん、と掠れた声でいった。
「風呂、入ってきな。髪に絵の具ついてる」
「ん」
 バスルームに向かった時子の後ろ姿を見送ってから、垂火はごろりと寝転がった。 古い畳は絵の具と煙草の匂いがした。



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 シャワーを頭から浴びながら、時子は肺に溜まった空気を細く深く吐き出した。
 身体がおそろしくだるい。当然だ、吸いすぎた。垂火はどう思っただろう。きっと弱い女だと思ったにちがいない。
 時子が浴室から出ると、渋面した垂火が冷蔵庫の中をのぞいていた。
「オレンジジュースと水と調味料と、ビールとビールとビール……固形物はどこだよ。 植物にでもなりたいんですか」
「光合成してるだけなんて楽だよねー」
 時子がおどけてみせると、垂火はこれ見よがしなため息をついた。
「キミのせいで俺はいつでも嫁に行けそうだよ」
「引く手あまただろうね」
「時子よりはね」
 しれっとそういって、垂火は冷蔵庫の扉をしめた。


 近くのスーパーに二人して買い出しに行き、夏の暑さに辟易しながら急いで冷蔵庫に食料をつめこむ。 あんなに涼しげだった冷蔵庫も、今はたらふく食べ物を詰め込まれて消化不良のような顔をしている。
 無事にフレンチトーストを作り、食後にコーヒーと煙草を交互に摂取しながら時子はたずねた。
「今日の個展、来れそう?」
「悪い、やっぱり無理みたい。教授の講演会があってさ、その手伝い」
「じゃあ、その後」
「閉館時間、五時なんだろ?  間に合わねーよ」
「じゃあ、その前」
「準備で走り回ってる」
「どうせその講演会のプロット、また垂火が書いたんでしょ?  行く意味ないじゃない。こっちに来てよ」
「無茶いうなよ」
 垂火は虫を払うように片手をひらひらと振った。
「才能のない人間は、人間関係を出来るだけ円滑にしておかなきゃなんないの」
 時子はセブンスターをもう一本、箱から出すと口にくわえた。そして、ふうん、と温度のない声でいってから火をつけた。
「まるでわたしには才能があるみたいな言い方」
「あるよ。俺にはわかる。まあ、 売れるか売れないかは分かんねーけど」
「まるで売れないみたいな言い方」
「なに苛ついてんの。大丈夫、教え子をひとり行かせるから」
「教え子?」
 時子は内心で首をかしげた。聞けば家庭教師のバイトを始めたらしい。 金なら腐るほどあるくせに、酔狂なものだ。皮肉交じりにそういうと、垂火は苦笑した。
「自立したいって試みは褒められてもいいと思うけどな」
「はいはい。どんな子?」
「無駄に目つきが鋭い男子高校生。もしかしたら声かけてくるかもな」
 ふうん、とさっきと同じテンション気のない返事をしながら、時子は何気なさを繕って続ける。
「生徒に手、出したら駄目だからね」
「俺の好みは年上だ」
 垂火は笑う。時子も笑った。
 わたしは最低だ、と時子は笑いながら心の中で呟いた。






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