08 - [ 2004年8月 V ]

 雨模様の週末が過ぎ月曜の授業で、垂火恭平は達朗の顔を見てすぐに、この子どもが自分に敵意を抱いていることを感じ取った。 どうやら態度には出さないようにしているらしいが、顔に出ているので意味はない。
 分かりやすい奴だな、と垂火は何食わぬ顔で考えながら課題にしていた問題に赤ペンを走らせた。

「ここ、よく分かったな。上出来、上出来。けどな、凡ミスが多すぎだよ。 あ、また計算ミス。ここの解き方はもう理解できてるだろ?」
「……」
「もしもーし」
「あ?」
「あ? じゃねーよ、休憩時間三秒に減らすぞ」
「……すみませんでした」
「ところで展覧会、どうだった」
 前触れもなく訊かれて達朗は目に見えてうろたえた。垂火は問題集に目線を落としたまま、退屈だったか? と続けて尋ねる。
「美術とか興味なさそうだし。誘ってからいうのも何だけど」
「いや、まあ……普通に面白かった」
「そりゃ良かった。時子には会った?」
 達朗は、たっぷり三秒ほど逡巡してから首を縦に振った。
「会ったよ」
「どうだった」
「どうって、何が」
「なかなか面白い奴だっただろ」
「あんた以上に人の話を聞かない人だったよ」
 垂火は生真面目な顔で頷いてみせた。
「そう。 俺が人の話を聞かなくなったのはアイツの影響なんじゃないかって常々疑ってるんだ。参るよね」
「俺はあんたの影響だと思う」
「ところで、何か聞きたいことでもあんの」
 ページをめくって、垂火はそのまま問題集と回答に交互に目とペンを走らせながら尋ねる。
「そんな顔してるよ」
「別に」
「ならいいけど」
 しばらく雄弁な沈黙が続いた。
 八月も終わり間近だからか、セミの鳴き声が今日はやたらとうるさい。 短い命を謳歌しようと鳴き喚く声を聞くともなしに聞きながら、 垂火は達朗のなかにせめぎ合っているであろう葛藤を想像した。 それから、努めてさり気なく聞こえるようにいった。
「俺とあいつはおまえが想像してるような関係じゃないよ。たぶん」
「聞いてない」
「あ、そう」
 再びの沈黙。
「それって、」
 セミの声に混じるような掠れ声で、達朗が口を開いた。
「……彼女じゃないってこと?」
 素直じゃないなーこいつ、と垂火は思ったが口には違う言葉を出した。
「そんなもんよりずっと大事な人間だよ」
「どういう意味だよ、それ」
「付き合ってないってこと」
「微妙に違うような気がすんだけど、」
「それに俺は男の方が好きなんだ」
「先生さ、たまにはまともな会話しようぜ」
「心外だわ。傷ついた」
「俺は毎回傷だらけだよ!」
「いちいち怒鳴るなよ。元気だなあ」
 垂火は笑顔の手本のような笑みを浮かべてみせてから、 採点し終わった問題集を達朗に押し出した。 達朗は憮然とした顔で×の目立つページを見て、深いため息をひとつこぼした。
「それがきちんと出来たら、時子が行きつけの店を教えてあげるよ」
 弾かれたように顔を上げ、それから盛大に顔をしかめた達朗を見て、垂火はわざとらしく目を見開いた。
「何、その顔。いくらなんでも自宅は教えられねえよ。最近ストーカーになる若者が多いってテレビでいってた」
「そういう意味じゃねえよ! てか、ストーカーとかしねえし」
「大抵、皆そういうらしいんだよね」
「違うって…つーか、」
 あの人の気持ちも知らないで、という言葉と、誰が頼んだよ、という二つの言葉がこみ上げたが、結局どちらも抑えた。 前者は、自分から言うべきことじゃないと思ったからで、後者は実際のところ今現在、 自分と時子の間には垂火しかいないという事実を思い出したからだった。
 達郎は深く空気を吸い込み、二酸化酸素に変換してゆっくりと吐き出した。
「あんたって最低だよ、色んな意味で」
「照れるからやめろよ。制限時間、五分な」
 垂火は腕時計にちらりと目をやり、達朗はまんまとペースに乗せられたことに憮然としながらもシナプスを総動員させた。



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 帰り際、垂火は財布から名刺大のカードを出すと、どうする? と尋ねた。 達朗はしばらくの葛藤の後に頷いた。とどのつまり、それしか手段はないのだった。 手に取ったカードには、表に洒落た書体で『喫茶店ユーフォリア』とあり、裏に地図と電話番号があった。
 無言でカードを見詰める達朗を見下ろしながら、垂火は昨晩のことを思い出していた。


『いい子だね、垂火がよこしたあの子』
 巻き寿司用の酢飯を作る垂火の後ろで、時子は具材を切り分けていた。
『話も弾んだしね』
 聞けば、食事に行ったのだという。ファンの確保は必要でしょ? と時子は笑う。 その笑みのわずかな不自然さに気づいたのは、それだけ付き合いが長いことを意味しているのか。 まさか寝てないよな? と訊くと、寝たわ、と時子は答えた。あっさりと。
 思わず垂火が振り向くと、時子は包丁を丁寧に机に置いた。
 泣き笑いのような顔をしていた。


 なあ、と達朗が声をかけたので、垂火は昨晩の情景を頭から追い出す。
「あの人と昔馴染みなんだって? よく勉強、教えてもらったって聞いた」
「高校からの知り合いだよ。 まあ、アイツは芸術科だったんだけど。あいつの兄貴と三人でよく――」
 言葉半ばで垂火は口をつぐみ、さりげなく話をまとめる。
「まあ、腐れ縁ってやつ。長い付き合いだよ」
「時子さんって兄貴いたんだ。いくつ離れてんの?」
 流そうとしたにもかかわらず無邪気に達朗が尋ねてきたので、垂火はしょうがなく重い口を開いた。
「十才。今は四歳差になったけど」
「は?」
「八年前に死んだんだ。事故で」
 ごめん、と達郎がいいかけたので垂火は遮った。
「それは別に俺にいう必要はないよ。その喫茶店な、俺たちが高校ンときに時子の兄貴が働いてて、よく遊びに行ったりしてたんだ。 だから行くのはいいけど、小夜さんに迷惑かけんなよ」
「小夜さん?」
「そこの店長」
「わかった」
 と頷いてから、達郎は可笑しそうに名刺を揺らした。
「気取った高校生だったんだな。喫茶店に出入りするとかさ。俺はゲーセンとかだったよ」
 垂火はあいまいに笑った。
 わざわざ達郎にいう必要はないが、時子がこの店に入り浸っていたのは他に居場所がなかったからだ。 唯一の味方である兄の元にいたいと思うのは当然で、それを知ったからこそ小夜も快く受け入れてくれたんだろう。




 草薙家を辞して車に乗り込む前にふと空を見上げると、週末の不機嫌さがまだ尾を引いているのか、 どっしりとした分厚い灰色の雲が広がっていた。その隙間から帯のような日光が地上に差し込んでいる。 不気味さと美しさが奇妙に混紡した空だった。 古いフランス映画ならば、こういう日に主人公は手首を切りそうに思えた。
 運転席に座り、シートベルトを締め、キーを挿そうとして手をすべらせた。 厄介なことに座席の下に入ったらしく、舌打ちをする。 そのときになってようやく垂火は、自分がかなり苛ついていることに気づいた。
 ハンドルの上に顎をのせ、さっき達朗に聞かせた言葉を今度は自らに言い聞かせる。

 そう、八年前に死んだんだ。もうどこにもいない。
 なのになぜ、俺はいまだに影響を受けているのだろう。
 いつになったら一ノ瀬時生を過去として処理できるのだろう。
 一体、いつになったら。







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