13 - [ 2004年10月 III ]

「カラマーゾフの兄弟は?」
 と垂火は尋ねた。
「罪と罰、冷血、キャッチャー・イン・ザ・ライ、蠅の王、華麗なるギャツビー」
「冷血だけ……」
 達郎がおそるおそる答えると、垂火は無言で眉を片方だけ上げた。
「だって、ああいうのって堅苦しいじゃん。読む気しなくて」
「莫迦、名作といわれてるもんにはそれなりの理由があるんだよ。 フォークナーを知ってるか?」
「ウィリアム・フォークナー?」
「そう。 たとえば彼がいうには、作家に必要な要素は三つ。経験と観察、そして想像力。 今のところお前はまだケツの青いガキで経験値は足りてない。大体、Lv7くらいだ」
「低っ!」
「ようやくラリホー覚えたってところだな。ところであれ、敵に連発されるとウザイよね」
「すげえ共感できるけど、今は心底どうでもいい」
「というわけなので、Lv7のお前はまず他の二つを磨きなさい。 登場人物が皆、同じ価値観をもってる小説なんて愚の骨頂。 自分とは違う人間の、自分とは違う物の見方ができるように」
「それが想像力?」
 そのとおりという風に垂火は人差し指を達郎に向けた。
「それと観察。ってのはつまり、日常の細かなことに興味をもつことだな。 道端に片方だけ落ちている手袋だとか、雨だれの最初の一滴だとか……そして、特に人間に」
「人間に?」
「椅子とかスプーンの話を書きたいんならまた別だけど」
 あ、なるほど。
 達郎が頷いていると、垂火はいつの間に出したのか一枚のメモを差し出した。 そこには走り書きで、左に作家の名前、右にタイトルが書かれていた。そのうちのいくつかには、翻訳者の名前も指定されている。
「上から順番に、一日に一冊ずつ読んでいけ」
「一日に……一冊!? いや、でも明日は化学の小テストがあるし、それどころか来月には中間テストも、」
「強制はしない」
 垂火はひらひらとメモ用紙を達郎の顔のまえで揺らした。
「強制から生まれるもんなんて一ミリもありゃしないし。いっただろ、全てはお前次第」
「……」
 達郎がひったくるようにしてメモ用紙を受け取ると、垂火は歯を見せて笑った。
「あ、でも中間テストで順位落としたら、全裸で逆立ちな」
「なんでだよ!!??」
「お前の順位が落ちたら俺の存在意義がヤバイだろうが」
「死ぬっつーの!!」
「そう簡単に人間は死なねえっつーの。というわけで、勉強はちゃんとすること。 でも、ちゃんと本の内容も頭に入れろよ。流し読みじゃ無意味だかんな」
「ムリだって……俺、読むの遅い方だし。それに、今の順位だって奇跡みたいなもんなのに」
「中間まで徹夜っていうのはどうだろう」
「いや、あんたの頭がどうだろう」



 なぜこうなったのか。事の発端はというとニ時間前に遡る。
 垂火に原稿を預けた翌週の水曜日、 いつも通りに時間きっかりに達郎の家を訪れた垂火は椅子に座るやいなや、こういった。
「おまえ、悪くないよ。たぶん」
「は?」
「で、だ。もし本気で文章力を上げたいと思うんなら、 俺が少し手助けしてやってもいい。どうだ?」
「どうだって……そんなこと急にいわれてもよ、」
「人生で起こることの大半は急だよ。三秒で決めろ。いーち、にーい」
 と、垂火がカウントし出したので達郎は慌てて片手を挙げた。
「はい、達郎君」
「つまり、あの話は良かったってこと?」
 照れくさそうに尋ねた達郎の顔を嫌そうに見て、垂火はバリトン張りに低い声を出した。
「ギリギリ及第点」
「え、話が? それとも今の質問が?」
 それには答えず、垂火はテーブルの上にある赤ペンをつまらなそうに指で弾く。
「俺の見込み違いだったら、それでいいんだけどねー。何か、そんな気がしないでもないし。今まさにィー」
「う……いや、でもそうだと思う。趣味で書いただけだし、 たまたまあの話がよく出来てただけっつーか……そんなんだろ、たぶん」
「そこは否定して切れるところだろうが! なに健気に身を引こうとしてんだてめーは!」
「逆切れかよ!? もうわけわかんねーよアンタ!」
「しかも全っ然よく出来てないからね。 どさくさに紛れてうぬぼれてんじゃねー」
 こいつは俺を貶したいのか馬鹿にしたいのかどっちなんだ、と達郎が半ば本気で考えていると、 ふと垂火が真面目な顔になっていった。
「全てはお前次第だよ。その才能を磨こうが、そのまま転がしておこうが、全てはお前次第なんだ。 これから先、色んな人間がお前に向かってそれぞれ好き勝手な意見をいうだろう。 今、俺がしているようにね。 でも取捨選択するのは常に自分なんだよ。 だから、ちょっと考えてみろ。俺の意見が自分のメリットになるかどうか」
 やがて俯いていた達郎が顔を上げると、その強い目を見て垂火は口の端を上げた。
「じゃあ、授業を始めようか。まずは明日の化学の小テストのために?」



 そういうわけで達郎はその日以来、何処にいくにしても鞄に本を忍ばせるようになった。 一日一冊というノルマは、今のところ完遂できている。
 だが、最初の一週間はきつかった。 時間配分に慣れていないために本当に徹夜する羽目になったり、または学校の休み時間を割かなければならなかった。 そんな達郎を見て、三浦純平を筆頭としたクラストメイトは絶えずからかいの言葉を送る (「よう、文学青年」「今更キャラ変更かぁ?」「それ官能小説?」)。
 それら全てに対して達郎は「うるさい」と「ほっとけ」という二つのバージョンを交互に返していたが、学校で本を読むには障害が多すぎると悟り、 翌週から決死の思いで朝五時に起きるようにした。
 すると、不思議なほどすんなり言葉が頭に入るようになった。 文字はたちまち色彩豊かに達郎の脳をかけめぐり、何らかの痕跡を残していった。



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「大事なことは、三つ」
 と、垂火はいった。
「ひとつは、たくさん読んでたくさん書くこと。知識を知識としてでなく、経験として蓄積しろ。 文学は即ち人の歴史そのもの。折角、先人たちが積み重ねてきたものを吸収しない手はねーだろ。 そして書きまくる。自分の長所と短所、そして得意とする武器――あるかどうか分かんねーけど――それを自覚すること」
「オイ」
「次に、プロット。これは、ない方がいいタイプもいるけど、お前はあった方がいいと俺は思う。 なので、最初のうちはざっとでいいからプロットを作る癖をつけろ。漠然と書くな。目的のない文章ほど虚しいものはないかんな」
「三つ目は?」
「推敲。当たり前だけど作家にも色んなタイプがいてさ、中には一発で完璧に近いものを作る人間もいる。 だが自分が天才だと思わない限り、推敲は絶対に欠かさないこと。時間が許すなら少し寝かせてやるのもいい」
「何か、色々めんどくせえのな」
「莫迦、こりゃ基礎だ。 とりあえず試してみて、その上でお前はお前のやり方を見つけていけばいい」
 また、ある時はこうもいった。
「よい文学とは何か、自問自答し続けろ。昔から様々な作家が様々な答えを出している。 『誰にも模倣できないもの』だったり、『人々を宗教の一歩手前で置き去りにして、絶望を見せつけること』だったり、 もしくはシンプルに『生命力』とかね。 ただ、お前の答えは勿論違うだろうし、別に大層なもんじゃなくてもいいんだよ」
「あんたは?」
 と、達郎は尋ねた。
「あんたの思うよい文学とは?」
「面白いこと」
「え、そんなのでいいの」
 意外な答えに達郎が揶揄すると、垂火はシャーペンを指先でくるくると回しながら答えた。
「面白さにも色々ある。それに面白くなきゃ最後まで読めないもん」
「いや、まあそうだけど。二十三歳の男がその語尾はどうなんだ」
「もうひとついうなら人生に価値を見出せるものかな」
「価値?」
「そう。どんな人間も、生きていれば逃れられない障害に突き当たる。 老いに病、死。それに喪失」
「ソウシツ」
「こいつは一番タチが悪いんだ。 喪失の哀しみほど人を屈服させるものはない。その存在が大きければ大きいほど」
 あんたは何かを失ったことがあるのか? と達郎は考えたが、訊くのは避けた。
「人生は砂糖菓子で出来ちゃいない。むしろふざけたことに、八割がた困難と苦しみで出来ている。 だからこそ価値を――」
 垂火は回していたシャーペンで達郎を指した。
「光を見出すこと」







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