14 - [ 2004年10月 IV ]

 天高く、馬肥ゆる秋。
 快晴の空を仰いで、時子は有名なことわざを口ずさんだ。 美術館の端にある喫煙所で、ぼんやりと煙草をくゆらせながら。
 今日は個展の最終日である。初めての個展ということで、契約している画廊の画商、長谷川ははりきって得意客を次から次へと紹介してくる。 初日はのらりくらりとうまく逃げたがさすがに二度目はそうもいかず、したがって時子は朝からサービス用の笑顔を振りまいていた。 おかげで普段は使っていない顔面の筋肉がひきつけを起こしている。

「疲れた顔」
 ふいに降ってきた声に顔をあげると、懐かしい人物だった。
「初個展、おめでとう。初日に来たかったんだけどね、出掛けに陽太がぐずってさ。最終日なら時子もいるだろうと思ったから」
「来てくれてありがとう。久しぶり、元気だった?」
「育児ノイローゼで死にそう。なんで赤ん坊ってあんなに泣くわけ」
「ミチルだってそうだったでしょ」
「あたしが泣いたのは男に振られたときだけよ」
「格好よく聞こえるけどそうでもないよね」
 佐野ミチル。芸大時代の同期で、時子の数少ない友人のひとりだった。 といっても最近は子育てに奮闘中らしく、あまり会ってはいなかったのだが。
「陽太は?」
「実家に預けてきた。今頃、撮影会でも開いてるんじゃないかしら」
「子どもの頃の写真はたくさんあった方がいいよ」
「まだ一歳なのに、もうアルバムが五冊もあるのよ。 あの狭い家のどこに仕舞うんだか。この調子じゃ小学校に上がる頃には床に山積みよ」
 時子は声をあげて笑った。美大時代を思い出す。 あの頃はよくこの辛らつな言葉を隣で聞いていたものだ。 と、他人事のようにしていたら急に矛先が向いた。
「ところであんたねえ、見てたわよ。もうちょっと愛想振りまいたら?」
「はあ? 何いってんの」
 心外だ。自分では精一杯、愛想よく振舞っていたつもりだったのに。 少なくとも普段の二割り増しは笑顔を浮かべていたはずだ。
 そう主張すると、「二割増しでやっと普通なのよ、時子の場合は」とミチルはいう。時子は顔をしかめた。 顔面の筋肉を甘やかしてきたツケがこんなところで回ってくるとは。
「もうやだ。おうちに帰りたい」
「がんばりなさいよ、引きこもり」
 童話に出てくる魔女のような意地悪い口調でいってから、しかしミチルは口の端を上げた。
「まあ、でもいいんじゃない。ちょっとくらい無愛想でも許されるしね。芸術家ってやつはさ」
「さっきといってること違くない?」
 いいのよ、と笑ってからミチルはちょっと周りを見渡した。 逡巡しているような空気。来るな、と時子は長年の勘で直感した。
「彼は? 来てないの?」
 やっぱり。
「先週来てくれたみたいだから。二回も来ないでしょ」
「ねえ、まだ一緒にいるの?」
 それには答えずに時子は煙を吸い、一瞬止めて、吐いた。
「……もう止めなさいよ。こんな関係がずっと続くと思ってるわけじゃないでしょ?  あんたたち見てるとさ、時々すごく痛々しく見えちゃうのよ」
 ミチルは短いため息をつき、計算された角度で美しく巻かれた髪を乱雑に掻き揚げた。 さすがモデルは様になるな、なんて時子はまったく場違いなことを考えた。
「いいのよ。傍にいれるだけで」
「嘘。そうやっていつまで自分を誤魔化していくつもり? 分かってるくせに」
 分かってる、と時子は考えた。
 分かってる。時々、どうしようもなく垂火に触れたくなることがあるから。 いや、違う。本当はいつも触れたくてしょうがない。 猫っ気の髪や、節ばった長い指や、皮肉っぽく笑う唇や、その全てにキスをしたい。 けど勿論、そんなことは不可能だ。

『お前が好きだよ』
 そう垂火はいった。苦渋に満ちた顔で。
 忘れもしない、兄の葬儀の日だった。
『でも、お前が求めてるものを俺はあげられないよ』 
 それでも全く構わないと答えた。他にどう答えればよかったというのだ。

「……あんたには幸せになってほしいのよ」
 サングラスを手の中で握り締めながら、ミチルが低く呟く。 煙草を灰皿に落として時子は立ち上がった。そろそろ戻らなければならない。
「ねえ、今度また遊びに行ってもいい? 陽太と誠二さんにも会いたいし」
「こら、また話を逸らす」
「好きなの」
 何度目かの言葉を口にした。きっと当人の垂火よりもミチルの方がこの言葉を聞いているだろう。
 諦めろといわれても、もうどうやって諦めればいいのかすら分からない。 求める気持ちをどうやって抑えればいい? 今だってもう既に限界まで抑えているのに?
「離れるなんて耐えられない」
「まったく……」
 私は何度でもいうからね、とミチルはため息混じりにいった。ありがとう、と時子は答えた。




「実は今日ね、ちょっと会ってほしい人を連れてきたの。このあと少し時間ある?」
 会場に連れ立って戻る途中、ミチルがそういった。
「だれ?」
「仕事の関係で知り合った映画監督。《ランドスケープ》とか《大洋の夜明け》とかの曾我潤一郎って……知らないか。 時子、映画あんまり見ないもんね。まあ、そんなに売れてるわけじゃないから知らない人の方が多いだろうけど」
 と言葉半ばでミチルは片手を挙げた。 視線の先を辿れば、スーツ姿の無精ひげの男がいて、こちらに片手を軽く挙げてみせる。 身長が高く、周りの人間たちより頭ひとつ飛びぬけている。
「曾我さん、彼女が一ノ瀬時子」
「どうも。曾我と申します」
「一ノ瀬です。初めまして」
「驚いたな。想像よりもずっと若くていらっしゃる」
 握手を交わすと、存外強い力で握られる。三十代後半くらいだろうか。 おそらく身長は190センチを超えるであろうに、威圧感のない、穏やかな雰囲気の男だった。 草食のクマっぽいな……と時子は第一印象をそう決定づけた。
「実はね、時子の絵を映画で使われたいそうなの」
「以前、知人の家であなたの絵を見かけました。ブルーを基調とした、廃墟の町角に裸足の少女が立っている絵です。 たしかタイトルは……」
「《胎動》」
 時子が先回りして呟くと、曾我は一瞬目を見開いてから深く頷いた。
 といっても、このタイトルは時子がつけたわけではなかった。 それをいうならば、時子の描くほとんどの作品にタイトルというものは存在しなかった。 《イノセント・ジェンダー》などの、ごく僅かな作品をのぞいてタイトルは通常、画商である長谷川がもっともらしいものをつけている。
「廃墟のモチーフを多く使われてますね。ベクシンスキーにどこか似通った、 緻密で幻想的な……彼ほど終末的ではありませんが」
「特にあの頃に描いたものは比較的そうかもしれません。多大な影響を受けた画家ですから」
「作品によっては技法や雰囲気をガラリと変えていらっしゃるが、不思議とどれを見てもすぐに貴方の絵だと分かります。 どれも深く物憂げで、美しい」
「恐縮です」
 世辞も多分に入っていると思ったので、時子は軽く会釈するだけに留めた。
「今日、展覧会を拝見して確信しました。ぜひ一ノ瀬さんに今度の映画で使用する絵を描いていただきたいのです。 デッサン画と油絵を各数枚程度なのですが」
「どんな絵を?」
「絶望の淵に立った人間が見た光を」
 思わず時子は笑った。面白い。とんだロマンチストだ。
「私はまだ若輩者ですよ」
 冗談めかして時子はいったが、曾我は真顔を保ったままでこう訊ねた。
「引き受けてくださいますか」
 時子が少し考える姿勢を見せると、横からミチルがにこやかに口を出す。
「曽我さん、ちょっと性急すぎません? 食事がてらに詳しい話をしてからって予定だったでしょ?」
「そうだった、これは失礼」
 曾我は慌てて身を引いてから、時子を見て苦笑した。



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「では、乾杯」
 と、ミチルがワイングラスを軽く手元でかかげる。
「何に?」
「そうね……私たちの必然なる出会いに?」

 わざと気取った答えに、曾我と時子が咽喉の奥で笑う。
 夜も更けきった午後八時、時子たちは美術館から程近いレストランにいた。奇しくも以前、 達朗と食事をしたイタリアンレストランだ。 というのも、この店には美大時代からミチルと何度か来たことがあったからだった。

「ところで、どうでしょうか。さっきの話なんですが」
 一通りの世間話を終えたところで、曾我がそう切り出した。
「正直なところ、恥ずかしながら制作費が低いので……謝礼の方は満足いただける額ではないかもしれません。 プロデューサーも学生を起用してはというんですが、僕はどうしても一ノ瀬さんにお願いしたいんですよ」
「映画で使われたとなれば知名度も上がるんじゃない?」
 ミチルの言葉に、曾我は苦笑を浮かべてこめかみを掻いた。
「ヒットすればですけどね…」
「今からそんなこといって、どうするんですか。曾我さんの映画はすばらしいわ。 ねえ、時子。忙しいのは分かるけど私からもお願い!」
「ちょっと待ってよミチル。……曽我さん、納期はいつ頃に?」
 時子がそう訊ねると、曾我は鞄から黒革の手帳を取り出した。
「クランクインが年が開けてすぐなので、デッサン画の方はそれまでに……油絵の方は二月までに仕上げていただけると助かりますが、 基本的に撮影日に間に合えば問題ないので少し遅れても大丈夫です」
「分かりました。では、私でよければ喜んで」
 あっさりとそう答えた時子に二人はしばし唖然とし、それからミチルが満面の笑みを浮かべた。 曾我がもう一度、念のためという風にゆっくりと訊ねる。
「引き受けていただけるんですね?」
「ご期待に添えられればいいんですけど」
「いや、良かった。実はギリギリでしてね。引き受けていただけなかったらどうしようかと」
 安堵の表情で礼を述べ、曾我は続けた。
「時子さんの作品を使わせていただくのは主役の女性画家の描く絵ですが、それでも結構な枚数を必要とします。 全て描き下ろしていただくには時間もこちらの予算も足りませんし、かといって他を使って画風が異なると見目も悪いですので、 既存の絵をいくつか使わせていただきたいと思っています。よろしいですか?」
「ええ、買い手がついていないものならば問題ありません。画廊には私から話をしておきましょう」
 その後、詳しいことをいくつか話し合った。 報酬や、描きおろすデッサン画の枚数とモチーフ、サイズについて。そして同じく、新しく製作することになる油絵について。
「“絶望の淵に立った人間が見た光を”、と仰っていましたね」
 時子が含み笑うようにしてそういうと、曾我はテーブルの上で両手を組み合わせた。
「そうです。まずは、あらすじをお話ししないといけませんね」
 皿を交換に来たウェイターが去るのを待ち、曾我は話を始めた。
「ひとりの才気溢るる女性画家と、彼女をめぐる男たちの話です」
「ラブストーリー?」
 ミチルの嬉々とした問いに、曾我は微かな笑みで答えた。
「男たちの一人は彼女のパトロン、一人は彼女を慕う若い美大生、そして一人は彼女が心から望む男。 けれどその男と彼女とは、どうしたって報われない運命なんですよ」
「なぜ?」
 ワイングラスで口元を隠すようにして、時子は尋ねた。
「彼は、彼女の最愛の妹を愛し、そして手にかけた男だから」
 曾我はメインのラムを綺麗に切り取って口に運んだ。 ソースが滴り、白い皿の淵に歪な円を作る。
「彼女は総ての罪を知りつつ、己の胸に秘めて苦悩の中で絵を描き続けます。 時にパトロンとベッドを共にし、時に若い美大生から受ける愛の告白に心を揺らしながら。 しかしやはり、彼女の求める人間は彼、ただひとりなのです」
「彼は……振り向かないのですか」
「彼はそんなに器用な人間じゃないんですよ。そして最愛の人を喪った現実に絶望し、罪の意識に苛まれている。 たとえ、それが事故でもね」
「事故、」
「そう。彼は殺してはいないのです。少なくとも真実は。 まあ、それから紆余曲折を経て彼は服役することになります。 彼女は毎年、妹の命日に一枚の絵を送る。それは相反した感情が入り混じった絵です。慈愛と憎悪、批判と赦し――。 そして十年後、出所した彼は彼女を訪ねます。彼女は新たな一枚の絵を彼に差し出す」
「わかった、その辺りが今回新しく時子に描き下ろしてほしいやつね」
「お察しのとおりです」
“絶望の淵に立った人間が見た光を”
 時子は胸中でその言葉を呟いた。
「結末はどうなるんですか?」
 時子が訊ねると曾我は悪戯っぽい表情で、それはまた次の機会に、と答えた。 ミチルが興味津々といった顔で、心中しちゃうとか? と問いかける。
「さあ。どうでしょう」
「いやあね、気になる。聞くんじゃなかったわ」
 笑い声が弾けた窓際のテーブル席で、時子は笑うことはおろか瞬きすらできず、ただ呼吸を一定に保つことに専念していた。
 心臓の震えが指に伝わらないようにと。







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