ブラインドを下げ忘れていて、一ノ瀬時子は目を覚ました。
何か夢を見ていたような気もするが、網膜が光を捉えた瞬間に霞んで消えた。
初秋とはいえ晴れ渡った日だった。太陽の光は騒々しく、起きたばかりだというのにもう気だるさに襲われる。
手を伸ばしてブラインドを下げると、床にストライプの光の模様ができた。
しばらく無意味にその光を眺める。
ようやく身体を起こしたのは目覚めてから優に数十分後だった。
ここ最近というもの、大量の鉛を飲み込んだかのように身体が重く、そのためにもう二週間近く一歩も外に出ていなかった。
時子には躁鬱症の気があった。医者にいわせればごく軽い、気分の上下が人よりも長いスパンで留まっているだけらしいが、
それでも前触れなく訪れる昂ぶりや虚脱感に左右されるのは精神的な混乱を招く。
しかし厄介なことに、それは時子が人生でもっとも尊ぶ創作には良い影響を与えるらしい。
安定した精神状態のときよりも、躁鬱状態の方が筆はのった。
しかしいつもなら前触れなく訪れるこの症状も、今回に限っては原因をはっきりと自覚していた。
曾我とミチルと食事をした日からだ。報われない恋に身を費やした、莫迦な女の話を聞いてから。
ぬるいシャワーを浴びて目を覚ましてから、時子は家の電話の留守電ボタンを押した。
携帯電話は外出するときにしか使わないようにしている。
とはいっても、外出するときにすら持って行くのを忘れることもあるし、充電していないときもしばしばあるのだが。
それを知っている少数の人間は皆、急ぎの用件でなければ大抵、自宅の方にかけてくる。
《二件の、メッセージがあります》
時子はゆっくりとした動作で冷蔵庫からオレンジジュースを出して、コップに注いだ。
健やかな橙色が目に沁みて、飲み干せば急に健康になったような錯覚を覚える。
『おはよう、暁画廊の長谷川です。進み具合はどうかな。
実はね、先方がそろそろ痺れを切らしてきたみたいなんだ。
いや、スランプっての芸術科には付き物だけどね。
それと、この間話したパリ国際美術コンペティションの件だが、どうだろう? 君のキャリアアップに必ず役立つと――』
メッセージが終わる前に時子は削除ボタンを押した。今のは聞かなかったことにしようと勝手に決める。
起き抜けに憂鬱な気分になってしまった。
《次の、メッセージです》
煙草を吸おうとしたが、ライターが見つからない。
しょうがなくコンロの火で点けると前髪が数本焦げた。まったく。
『俺』
するりと耳に入った声に、時子はぴたりと手を止めた。
『今夜、空いてる? 急にもつ鍋が食いたくなってさ、行かないか? 良い店知ってるんだ。
それと……ユーフォリアに全然顔出してないって聞いたよ。小夜さん、心配してたぞ。
ちょっと顔みせにいったら? 気分転換にもなるよ。じゃあ今夜、空いてたら電話して。
ちゃんと朝飯食えよ』
保存しますか、と電子音がいい終わるまえに時子は保存ボタンを押した。
こんな他愛もないメッセージまで後生大事にしている自分は、相当いかれてるに違いない。
コーヒーメーカーのスイッチをいれて、時子はアトリエ代わりに使っている一間に足を向けた。
これ以上遅れれば、長谷川はきっと家にまでやってくるだろう。今日こそ仕上げなくてはならない。
生きるためには食べ物が必要だし、食べ物を手に入れるためには金が必要だ。
そして自分に出来ることは、つまるところ絵を描くことしかない。
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時子が生まれて初めて魅了された絵はギュスターヴ・ドレの挿絵で、
それは兄が持っていた『失楽園』の中にあった。もちろん幼い彼女に内容などは理解できるはずもなかったが、
ただその緻密なモノクロの美しさに心を奪われた。ある日、時子は恐々と鉛筆を握って完璧な模写をした。七歳だった。
生まれて初めて手にした画集はベクシンスキーだ。小学生のとき図書館から“パクった”まま、いまだに本棚にある。
ベクシンスキーの絵を初めて見たときの衝撃は今なお新しい。なんて恐ろしく、なんて美しい。
たとえば似たような画風を持つ画家として、ダリやアルフレッド・クービン、もしくはギーガーなどがいるが、
ベクシンスキーの持つ寂寥感、陰鬱さは例えようもない。
唯一無二の世界、と幼心に彼女は思った。
長い間、時子の所有する画集はそれひとつだけだったが、自分で稼ぐようになった今では画集も増えた。
たとえばマサッチオ、たとえばダ・ヴィンチ。フェルメール、ゴッホ、ビアズリー、シャガール、セザンヌ、クリムトにマグリット、そしてピカソ。
中学の終わりごろにピカソのデッサン展に足を運んだ時子は、
晩年の作品からは想像もできないほどの職人的ともいえる精密なデッサン力に心底驚き、高校の美術科に入るとまず一からデッサンを磨き直した。
初めに、対象をつぶさに見ること。
光やフォルム、質感とリズム感、バランスに重心、そして印象。
特に人間を描くのは面白かった。無機物と違って、そこには意思があるからだ。
今では描かなくなって随分と経つけれど。
日に何千回、何万回と鉛筆を走らせながらも、辛いとは微塵も考えなかった。
そもそも絵を描く行為を、好きだとか嫌いだとか、そういった基準で考えたことがなかったのだ。
ただ、なくては生きていけないだろうという漠然とした予感だけがあった。
時子は、この世には神秘が存在すると考えていた。
でなければ霊的ともいえるインスピレーションはどこから来るというのだ? ふとした瞬間に“それ”は顔を現す。
雑駁とした日常を隠れ蓑にして、あたかも今まで身動きせずそこに居たとでもいう風に、時子の視線の先に輪郭のない姿をあらわす。
“それ”が何であるのか、言葉で説明することはとても難しい。そもそも絵画なんてものは言葉で説明できないものを描くことだ、と時子は捉えている。
ただ、感じるのだ。神秘の欠片がじっと深淵からこちらを伺っているのを。
歴史上に数多に存在する、狂気の芸術科と呼ばれる人間たちはおそらく皆、この深淵を覗き込むあまり落下してしまったのだろう。
甘美な誘惑――神秘を理解するという誘惑に誘われて。
絵を描いているときはいつも、曲がりくねった平均台の上をすり足で進んでいる心地に陥る。
覚束ないその足取りは、恋にとても近い。
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太陽が傾き、世界の輪郭が曖昧になってきた頃、時子はようやく絵筆を置いた。
おそろしいほど集中していたおかげで身体はしっとりと汗ばんでいる。
手から先が自分のものではないような感覚は、のっている証拠だ。
それでも生理的な空腹を感じたので、財布と鍵だけを手に家を出た。
ヒッピーテイストなロングスカートのすそを翻し、大股で歩く。
垂火にいわれたからというわけではないが、ユーフォリアに行くのは久しぶりだった。
それをいうならば、まともに外出すること自体が久しぶりだったのだが。
黄昏の中で、ベビーカーを押した若い母親とすれ違う。安穏とした寝床のなかで赤ん坊は、しきりに両手を宙へと精一杯伸ばしていた。
しっかりと目を見開いて。何を欲しがっているんだろう、と時子はユーフォリアに着くまでずっとそのことを考えていた。
ユーフォリアの扉を押し開けると、バイト中の達朗は少し目を見開いてから、それでもいつもと同じトーンで、いらっしゃいませといった。
なので、時子もまたいつもどおりにカウンターに腰かけて、カプチーノを注文した。
少しの雑談をしてから、達朗から受け取った文庫本を開く。『アフリカの印象』。
高校だか大学だかのときに読んだことがあった。
達朗の視線を敏感に感じ取りながら、しかしそれを表には出さずに時子はページをめくった。
てっきり最近顔を見せなかったことについて、何かしら質問をされるかと思っていたが(おそらく今も訊ねたいに違いないが)、達朗はごく普通に振舞ってくれている。
その心遣いは好ましかった。
「それ、読んだことあるの?」
聞かれて、時子は顔を上げた。
「うん。好きな作家」
「俺はあんまりよく分からないな。延々と描写ばっかだし、すげえ奇妙で、
限界までこっちの想像力を試されてるような感じっていうか」
「ルーセルの文章は元々、語呂合せによる文章の変異ってのを発想の出発点としてるんだよ。
例えば、ひとつの単語の最初の文字がAとPじゃ文章全体の意味が違ったりするでしょ。
そんなのを徹底的に解析して絶妙なポイントで使ってる。
それでいて物語が破綻しないで構成がしっかりしてるのに驚いたのよね」
ふうん、と声を漏らしてから達朗は意外そうに呟いた。
「時子さん、詳しいね」
「私、こう見えて読書家よ? 古典もある程度読んでるし」
「いや、だっていつも推理小説ばっか読んでたじゃん」
「一番好きなのはミステリーだけど、全般的に興味はあるよ。文学と美術って縁も深いし」
そういって時子はポケットから煙草を取り出した。今日の銘柄はラッキーストライク。
なにか彼女なりの法則でもあるのだろうかと達朗は思ったが、それよりも今は時子の言葉の方が気になった。
「美術と文学、それに音楽を加えて、この三つはそれぞれ影響しあう関係にあると思うんだよね。
画家のダリって分かる?」
「えーと……あ、睡蓮の人? 点々した感じの」
「うん、それはモネだねー」
ぬるいツッコミに達朗は明後日の方向へ視線をやった。
「ほら、溶けた時計の絵とか」
「あ、あれか」
「ダリはちょうど、この本と同じタイトルの絵を残してる。
作曲家のドビュッシーは、さっきいったモネの絵を音で表そうとしたし。
インスパイアの連鎖ってやつ。文学も芸術の一種だと私は思ってる」
そういってから時子は店に来てから初めて笑みを浮かべた。微かなものだったが。
「作家もつまり、芸術家と呼べるかもね」
時子は本を伏せ、ようやくカプチーノに手を伸ばした。
「でもルーセルだったらロクス・ソルスの方がとっつきやすいと思うけどなあ。
まあ、垂火のことだから考えがあるんだろうけど」
ロクス・ソルス。パリ郊外に住む一人のマッドサイエンティストが友人たちを邸宅に招く話だ。
そこには世にも奇怪な発明品の数々が展示されており、ゲストたちは科学者による解説と共にそれらを見て回る。
その発明品のひとつひとつに、物語が隠されているのだ。
「へえ、面白そう」
「文庫でよければ家にあるよ。貸そうか? マイナーだから普通の本屋には置いてないのよね」
「マジで? じゃあ、お言葉に甘えて」
「今日って何時に上がりだっけ」
時子が腕時計を見て、訊ねる。
「もうすぐだけど」
「じゃ、待ってる」
わかった、と頷いてから達朗はもう一度、今のやりとりを頭の中でリフレインさせた。
『家にあるよ』
『じゃ、待ってる』
え? と達朗は半開きの口から母音ひとつをこぼした。