20 - [ 2005年1月 I ]

 関東における2005年の始まりは、美しく晴れた空から始まった。

 一月三日、既に喫茶店ユーフォリアはゆるりといつもどおりの営業を始めており、 達郎もまた通常通りにウェイターとして働いていた。 実際のシフトは三箇日が明けてからなのだが、暇を持て余していたからだ。
 だがもうひとつの要因として、時子に会えることを期待していたのはいうまでもない。 大晦日の夜、達郎はなけなしの勇気を振り絞って時子を初詣に誘ったのだが、どうやら年内に終わらせなければならない仕事に追われているらしく、 あっさり断られてしまったのだった。
 そんな背景があったので、ユーフォリアに垂火が現れたとき、達郎は露骨に失望感を顔に出した。
「お前はいちいち俺のガラスハートを傷つけてくれるよね」
 平坦な声でそう呟いた垂火は、クリスマスの賑わいが嘘のように誰もいない店内をぐるりと見回しながらカウンターに腰をおろした。
「とりあえず、あけましておめでとう」
「あけましておめでとう。何にする?」
「コーヒー、カフェイン抜きで。小夜さんは?」
「ちょっと出てくるって十分前に」
「じゃあ、これ渡しておいて。カボチャの煮つけなんだけど作りすぎちゃって」
「カボチャの煮つけぇ? 料理とかできんの?」
 達郎がこれ見よがしな疑いの眼差しを注ぐと、垂火は無言でタッパーを開けて差し出した。 一口摘んだ達郎は、衝撃的な表情で口元を押さえる。
「家庭的ドS……新ジャンルだな」
「よーしお前、ちょっとそこに正座しろ」
 そんな準備運動のような言葉遊びの後で、垂火は本題を切り出した。
「ところで来週の土曜、何してる?」
 それを聞いて、達郎はやや微妙な表情を浮かべる。
「なに、その顔」
「いや、ちょっとデジャブが……」
 垂火は小さなクエスチョンマークを浮かべたが、気にせず話を続けた。
「知り合いに編集者やってる奴がいるんだけど、会ってみないか?」
「え?」
「莫迦で軽薄で適当な男だけど、こと小説に関しちゃ信用できる男だ。 この前新しく書いた短篇あったろ、アレ渡しておいたから。会って、直接話しを聞いてみなよ」
「わ、わかった」
 咳き込むようにして達郎が了承すると、垂火は軽く笑んで出されたラテに口をつけた。 そして音を立てずにカップを置いた。その仕草は洗練というほどではないが、なかなかに品があった。 口も態度も悪い男だが、時々ちょっとした何気ない仕草の端に育ちの良さみたいなものを滲ませている。
「そういえば先週渡したリストだけど、どうだった?」
 灰皿を引き寄せながら垂火が尋ねる。
「お前、最初は詩なんてとっつきにくいって渋ってたろ」
「いや、思ってたよりは面白かったよ」
 たしかに初めこそ退屈な代物でしかなかったが、慣れさえすれば、長くても数ページそこらの短い言葉の連なりの中に、 一冊の本にも匹敵する物語があることを知った。
 ちなみに、少し前から一日一冊というノルマは解除されている。あの無茶な注文はおそらく自分を試していたのだろう、 と達郎は考えていた。
「そこで頑張る生徒にプレゼント。といっても俺のお古だけど」
 鞄から紙袋を取り出して垂火は差し出す。 達郎はぽかんと口を開けてから、慎重な様子で顎を引いた。
「開けたら爆発とかしないだろうな」
「お前は俺をなんだと思ってんの? 本だっつの」
「本? SM本とかじゃないよな」
「……なあ、本当にお前は俺をなんだと思ってんの?」
 紙袋を受け取った達郎は、しかし、出てきたペーパーバックの表紙を見て目を瞬かせた。

《Dreamtigers: Jorge Luis Borges》


 アルファベットの羅列。その下には不敵な顔の赤いライオンが。
 嫌な予感を感じながらカバーを開くと、やはりそれは洋書だった。 もちろん、達郎には半分も理解できなかった。
「……俺の英語の成績、知ってるだろ?」
「……」
「だよな? 黙りこむレベルだよな?」
「まあ、いけんじゃね? ちょっとは内容覚えてるだろ」
「一ミリくらいな!」
「ぎゃんぎゃん吼える前に読んでみたら。翻訳にはどうしても限界があるんだよ。 作品の本質を理解したいのなら、出来るだけそのままを読むこと。 大体、言葉を武器にしようって人間が世界共通語くらいそこそこ読めねーでどうすんだ。 つかフィーリングでいいんだよ、フィーリングで」
「いや、でも……」
「なあ、知ってるか。ボルヘスはアルゼンチン人なんだ」
 達朗は三秒ほどその言葉の意味を考えた。そして理解した途端、観念してうなだれた。
「英語で我慢します…」
「ま、これは単なるプレゼント。気が向いたら読んでみな」
 達郎は本を戯れにめくり、“Ariosto and the Arabs”と銘打たれたページで目をとめる。 かろうじてそれが、“アリオストとアラビア人たち”だと理解した達郎は、最後の一節を黙読した。 それだけは覚えていた。特に好きな一節だったからだ。


 In the deserted room the silent
 Book still journeys in time. And leaves
 Behind it ? dawns, night-watching hours,
 My own life too, this quickening dream.



「それ、俺も好きだよ」
 横から覗いた垂火はそういって、コーヒーを一口咽喉に流し込む。
「ボルヘスがいうには時間は大河であり、人間はその河の一滴にすぎないんだと。 俺たちはある種の手違いみたいに河に生まれ落ちて、その全体像は決して把握できないまま、ただ流されてゆく。 この世の全ては有限で、いずれは時間の河に流されゆく運命だ。言葉だって例外じゃない。 もしかしたらいつか、物語がすべて書きつくされてしまう日が来るのかもしれない」
「“バベルの図書館”みたいに?」
「そうそう。けどね、その有限の中で言葉は最も無限に近いところにある。 バベルの図書館がまだ空想の楽園なのは幸いだな」
 達郎は訥々と語る垂火をちらりと窺ってから、年季の入った風体のペーパーバックをもう一度よく眺めた。 たしかに新品ではないが、大切に読まれてきたであろうことは一目瞭然だった。
「……ねえ、なんで俺にここまでしてくれんの?」
「そんな大したことしてないだろ」
「大したことだよ。……俺にとっては」
 垂火は率直な驚きを目に宿して達郎を見上げた。 それから、ふっと笑みを漏らした。
「俺はさー、何かを作り出せるタイプじゃないんだ。 こう、元からあるものを派生させたり、手を加えたりするのは得意だけど、無から一を生み出すことが破滅的に苦手なんだよな。 だからクリエイティブな人間がとても羨ましい。お前たちの目で見る世界はたぶん、俺には一生理解できないんだろうな」
 達郎は、かなり照れくさい気持ちになって鼻をスンと鳴らした。 垂火がこんな風に真っ向から褒めてくれたことは初めてだったからだ。
「あんたには感謝してるよ」
「おいおい、熱でもあんのか? なんか素直すぎて不気味なんですけど」
「たまにはいいだろ」
「たまにはねぇ。 お前、時子のことが好きなんだろ? 俺ってある意味、お前にとっちゃーラスボスじゃん」
「そうなんだけど、最近アンタもそう嫌いじゃなくなってきた」
 その言葉を聞いた垂火は、分かるか分からないかという程度に息をつめた。
「……暢気な奴だな。そんなんじゃ百年経っても手に入れられないぞ。 現にクリスマス以降まだ会ってないんだろ? 忘れられてるんじゃないの〜?」
「やっぱ前言撤回するわ」
 一瞬で不機嫌になった達郎を見て、垂火は咽喉の奥でくつくつと笑う。 笑いながら、胸の底のもっとも深いところで軋む音を聞いた。疚しさと罪責感のみが鳴らせる類の音だ。
 目線を下げると開かれたままのページに、黒いインキが四十年前に書かれた一篇の詩を謡っている。


 In the deserted room the silent
 Book still journeys in time. And leaves
 Behind it ? dawns, night-watching hours,
 My own life too, this quickening dream.

 人気ない広間で、沈黙を守る
 書物は時間の中を旅する。背後に
 取り残された夜明けと夜の時刻、
 そして私の生、この慌しい夢。


「そして私の生、この慌しい夢――」
「何かいった?」
 カップを洗っていた達郎が振り向いて尋ねる。 垂火は羽虫を払うような仕草で片手を揺らし、二杯目のコーヒーを注文した。







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