21 - [ 2005年1月 II ]

 バスタブの中で、一ノ瀬時子は玄関のチャイムが鳴ったのを微かに聞いた。 そろそろ正午も回るというのに霜が一面に張った寒日のことだ。
 どうせまた新聞の勧誘だろう、と最初は居留守を決め込んでいた時子だが、チャイムはしつこく鳴り止まない。 仕方なく風呂から上がった彼女の目に、洗面台の横に張られたカレンダーが入った。 七日の場所に赤いチェックがある。それが意味するところを思い出した時子は玄関へ走った。
「あ、一ノ瀬さ……」
「すみません! 今日でしたよね、取りに来られるのって」
 どうぞ、と時子はスリッパを出して曾我を招き入れる。
「でも絵はちゃんと仕上がってますから。ああ、もう何で忘れるかなー」
「あの、一ノ瀬さん、」
「寒い中お待たせしちゃって……あれ、お一人ですか?」
「一ノ瀬さん!」
 上ずった声で叫んだ曾我に気圧され、時子はいつになく回っていた口を閉じる。 曾我は苦悩に満ちた真剣な顔で、噛み締めるようにこういった。
「まずは服を、着てきてください」
「……あ、はい」
 申し訳程度に巻いたバスタオルを引き上げながら、釣られて時子も真顔で頷いた。



「まさか曾我さんが来られるとは思ってませんでした。 電話では、美術監督の方だって聞いていたんですけど」
 湯気の立った緑茶を曾我の前に置いて、時子は自分も腰を下ろした。 曾我は軽く会釈して緑茶に口をつける。この前とちがって眼鏡をかけていたが、相変わらず無精ひげはそのままだ。 190センチの長身を折り曲げるようにして、座布団のうえに胡坐を掻いている。
「ちょうど時間が空きましてね。それに、まず僕が拝見したかったんです」
 監督って意外とヒマなんだろうか、と思いつつ時子も緑茶をすする。
「とうとう来週から撮影だそうですね」
「なんとか無事に予定通りスタートできそうでほっとしてますよ。 なので今日はデッサン画の受け取りと、あとできれば油絵の進み具合も見せていただけたらな、と」
「ええ。では、こちらに」
 時子は居間と続きになっているアトリエへの襖を開けた。 正面のイーゼルに乗っている油絵を見て、曾我は僅かに息をのんだ。
「これは……どちらの?」
「一枚目の方です。指定どおり6号で」
 依頼の油絵は二枚(それぞれ途中段階の絵も必要との注文なので計四枚だが)、一枚目は主人公の想う男が入所して最初の、そして二枚目は出所した彼に渡す絵ということだった。 一枚目は心象風景を、二枚目は抽象画で、という以外には絵のサイズを除いてモチーフは一任されていた。
「島、ですか」
「ええ」
「モン・サン=ミッシェルを彷彿とさせますね」
 さほど大きくないA3サイズほどのキャンパスには、遥かなる大洋が広がっている。 そのただなかに浮いた島は、それそのものが街であるらしく塔や建物がところ狭しと密集しているが、 その殆どが緑の蔓に覆われている。そのせいか島には人が住んでいる気配が一切なかった。
 波は穏やかだが空は重く、暗く、厚みのある雲の隙間から、幾筋もの光が海面を照らしている。 天上から差し出された梯子のように。
 色彩のなんて雄弁なことだろう、と曾我は胸中で唸った。モノクロに近いというのに、決して死んではいないのだ。 そこにはたしかに、密やかに息づく物語があるように彼には感じられた。
「なぜ、島を?」
「密室の比喩でしょうか。出たいと思えば束縛する檻に、居たいと思えば身を守る城になる」
「彼女の心境をあらわしているのですね。心もまたひとつの密室だ」
 普段はこういった理由付けを嫌う時子だが、 今回は既にあるストーリーのための絵ということでそういった意味合いを込めた。 ただ、やはりタイトルはつけていない。
「どうでしょうか。気になる点があったら変えますし、 もしモチーフ自体がそぐわないのであれば新しく描き直すこともできます」
 頭の中で、時子は残りの日数を逆算する。途中段階の絵を入れると少し厳しいが、やれないこともない。
 曾我は、やや驚嘆した風に彼女を見た。
「なんですか?」
「いえ、一ノ瀬さんは何というか、僕はとても芸術家気質な方だと思っていたんですよ」
 その言葉の意味するところを察して、時子は思わず口元をゆるめた。
「これはあなたの映画のための絵ですよ、曾我さん。いつもの仕事とは少し趣が違うと私は考えています」
 それを聞いて曾我は苦笑し、もう一度絵をさっきよりも少し寄って眺めた。
「そうですね……アップで撮るとき、このままだと端が切れるでしょう。上下にもう少し余裕を持たせてもらえますか。 それ以外はこのままで」
「分かりました」
「ところで、あれは杉板? ですよね」
 部屋の隅に立てかけてあった板を曾我は目敏く見つけて指差した。 板の表面は軽く黒ずんでおり、バーナーか何かであぶったように焦げている。
「はい。二枚目はあっちに描こうかと思って」
「ああ、そういえば抽象画は殆ど板に描いておられましたね」
「自分でもなぜかよく分からないんですけど、その方が奥に入るというか……。 埋めていくような感触なんです。うまく言葉で説明できないんですけど」
「そういった直感的なことは大事ですよ。きっと感性がそう告げるんでしょう。 もう構想は出来ておられるんですか?」
「ええ、大体は」
 と時子は答えたが、実際はまだ考えあぐねていた。
 慈愛と憎悪、批判と赦し――。
 この前、曾我から電話で映画の結末を聞いた。 あのラストにふさわしいものをどう表現すればいいのか。 とりあえず描き出しさえすれば、おそらく自然と筆は進むだろうが、それでもまだ躊躇していた。
「大事に描きたい作品なので、もうちょっとだけ待ちたくて」
「待つというと、インスピレーションが来るのを?」
「いえ、心の準備ができるのを」

 “報われない恋に身を費やした莫迦な女。”
 いうまでもなく、時子は自分と重ねていた。 そして一度重ねてしまった以上、出来上がる絵が自分の心の裡をさらけだすだろうということを、彼女はその直感で理解していたのだ。







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