24 - [ 2005年1月 IV ]

「言い訳があるなら聞こうか」
 地獄の底から這い出るような声で、垂火はそう吐き出した。
「だってさ、いかにもお前好みな顔だったもんだから、てっきり」
 携帯電話越しに聞こえる市川の軽薄な声に、垂火は天を仰いで舌打ちをする。 ひどい頭痛をおぼえながら。
「達朗が?」
「今はあの子の話だろ?」
「未だかつて一度でも、俺が好みの顔について話したことあったか?」
「ジョニー・デップが好きだっていってたろ」
「いったけど、デップと達朗のどこに共通点があんだよ! 皆無だろうが! デップに謝れ!」
「耳の形とか瓜二つじゃねーか!」
「……」
「あとホクロの位置とか」
 垂火は無言で通話を切った。昔から思っていたことだが、一度あの男はレーシック手術を受けたほうがいい。
 携帯をソファに投げ、垂火はおぼつかない足取りで冷蔵庫まで行くと水を煽った。 砂漠に雨が降るように、身体は貪欲に水分を吸い込む。どうやら、本格的に熱が出ているらしい。 風邪なんてものをひいたのは久しぶりだったので、どうにも勝手が分からない。
 とりあえず薬箱から風邪薬を発掘したはいいが、“食後に服用”と書いてある。 仕方なく垂火は重い体を引きずってミルク粥を作り、申し訳程度に胃に入れた。 ようやく薬を飲んでベッドにもぐりこむと、ここ数日あまり眠れなかったのも相まってか、急速に睡魔に取り込まれた。



 水底から浮上するときのようにゆっくりと垂火が夢の世界から戻ると、 微かにブラームスのピアノ曲が流れていた。最晩年に作曲された、三つの間奏曲のうちの一曲目。
 ブラームス自身が『我が苦悩の子守唄』と呼んだといわれるが、彼自身は生涯独身で子供はいなかった。 恩人であるシューマンの妻、クララを愛していたゆえといわれている。 が、クララ・シューマンは夫が自殺未遂の果てに病死した後も、ブラームスの良き友人の一人としてあり続け、 彼らが共に人生を歩むことはなかった。才ある者が同時に愛を手に入れられるとは限らない。
 いつだったかクラシック雑誌で読んだエピソードを思い出しながら、 ぼんやりとその天上のメロディーを追っていると、細く開いていた寝室のドアから時子が小ぶりな顔を覗かせた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや、」
 声がうまく出ず、垂火は何回か咳払いをした。
「いつから居た?」
「夕方くらいから」
「丸一日、寝てたのか」
「今日は家庭教師のバイトだったんでしょ? 達朗、電話が繋がらないって心配してたよ」
 それを聞いて、垂火は勢いよく上半身を起こしたが、すぐによろよろと枕に頭を戻した。
「最悪だ、すっかり忘れてた……俺としたことが無断欠席、」
「しょうがないでしょ、風邪なんだから」
 それとこれとは別問題なのだが、今更どうなるものでもないと判断して垂火は布団を顎まで引き上げた。 後で詫びの電話をいれておかねばならない。達朗が、気まずいからじゃないかなどと馬鹿な思い違いをしていないといいのだが。
「具合はどう?」
「ん……よく分かんねーけど、今朝よりは良い気がする」
「体温計は? 測ってみたら」
「たしか、そこに……」
 垂火はベッド脇のサイドテーブルに腕を伸ばしかけたが、その前に時子が体温計を手に取った。
「はい」
「至れり尽くせり」
「病人の特権ってやつよ。何か食べる? リンゴと桃缶なら買ってきたけど」
「いや、後でいいや。……時子、今本詰めなんだろ? 悪いな、手間かけさせて」
「今更気にするような仲?」
 時子はくすりと笑って、ベッドの端に腰を下ろした。こんな時にもきちんと適切な距離を保っていることに、 垂火は無性に胸を締めつけられた。
「やっと三回目だな」
「なにが?」
「時子がうちの合鍵、使ったの」
「……そういえば、そうね」
 遠くでサイレンの音が聞こえていた。救急車なのかパトカーなのかは、ここからでは判別できない。 垂火はゆっくりと瞬きをした。身体はだるく頭も重いが、芯の方ははっきりとしていた。 むしろ熱に浮かされているせいで、普段は常に頭の隅にうずくまっている悶々とした感情がそぎ落とされているようにも感じた。
「昨日、達朗が来たんだ。茹ダコみたいだった。叱られたよ」
「また苛めてないでしょうね?」
「まさか」
「あの子、良い子だよ」
「時子も小夜さんも、アイツに甘いと思う」
「あんたもでしょ」
 垂火はゆっくりと腕を伸ばして、時子の手を掴んだ。 熱があるせいで時子の手はひんやりとしていて心地よい。 指先に少し力を込めると、時子は一瞬おくれて微かに握り返してきた。
 垂火は、むかし火葬場で同じように手を握り合ったときのことを思い出していた。 あのときも時子の方が冷たい手をしていて、けれど自分たちはどちらも少し震えていた。
「なあ、覚えてるか? 初めて会ったときのこと。 鍵をかけたはずの図書室にいたよな。カウンターの下に隠れてたんだっけ。あれには驚いた」
「驚いたのはこっちだよ。いきなり修羅場に遭遇したんだもの」
「めちゃくちゃ平然としてるように見えたけどな」
「ねえ、じゃあユーフォリアで、兄さんの誕生日パーティーがあった日のこと覚えてる?」
「もちろん。時生さんに初めて会った時だろ?」
「私、本当はね、垂火を兄さんに会わせたことを後悔してた」
 握りあった手が強張ったことを、二人は同時に感じていた。
「知ってたのか」
「知ってたよ」
「……ごめん」
 洩らした言葉はすこし掠れた。熱のせいではないだろう。
「ごめんな」


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 垂火の言葉を、時子は今更なんの感慨もなしに受け止めていた。 正確には、受け止めようとしていた。こんなことは、今更分かりきっていることだと。 垂火はうまく隠していたつもりだろうが、彼の想いが兄に向いていることはそれこそ高校のときから知っていた。
 しかし、あまりにも垂火の声音が静謐な罪悪感に塗れていたので結局は、いつものように泣きたくなった。 そして、とても憎らしくもなった。
 なぜこの男は、私に対してはこんなにも誠実なのだろう。 他の人間にするように、なぜうまく誤魔化したり、得意の口八丁で見せかけの甘言を吐いてくれないのだろう。 こんな風に誠実に謝るから、ギリギリのところで私はいつまでも甘えてしまうのだ。
 そう恨み言を叫ぶ反面、もう一人の自分が対角線上から静かに声を上げる。
 違う、垂火は私の望みをできるだけ叶えてくれようとしているじゃないか、と。
 謝ることなんて、なにもない。垂火が兄さんを好きだったから、わたしはこうして弱みに付け込むことができたのに。 唯一の血縁という立場を最大限に利用して。
 ない交ぜになりそうな感情を何とか身の内に留めながら、時子は垂火の横のスペースに上半身をゆっくりと横たわらせた。
「ぎゅってして。一瞬でいいから」
 少しの間の後、握った手が解かれて背中に回る。 汗くさい、と時子が洩らすと垂火は、しょうがないだろ、と言い返してきたが、 その声にはいつもほどの余裕はなく、どことなく緊張しているように聞こえた。
 心臓の鼓動が服を通過して、伝わってくる。ほんの少し速いような気がするのは、きっと希望的錯覚なのだろう。 それでも時子は黙って胸元に頭を押し付けた。 服越しに感じる体温は暖かくて、嬉しくて、苦しくて、やっぱり少し泣きそうだった。
 垂火が求めてくれるのなら、なんだってあげられるのに。今ここで死んでしまっても構わないのに。
 声か、手か、瞳か。そのどれか一つでも、本気で求めてくれるのなら。

“絶望の淵に立った人間が――”

 そうか、と時子は心臓の音に耳をそばだてながら思った。
 そうか、こういうことなのだ。







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