25 - [ 2005年1月 V ]

 どうせい―あい【同性愛】
 性愛の対象として同性を指向すること。 また、そのような関係。ホモセクシュアル。

「改めて調べるようなことじゃねーだろ…」
 達郎は国語辞典を閉じると、ベッドに仰向けに倒れた。
 ただでさえ余裕のない脳みそが、容量オーバーのために悲鳴をあげている。 人の脳は通常10%ほどしか使われていないそうだが、今なら少なくとも11%は使っているに違いない。
 達郎は混乱していた。垂火の口から出た真実が理解の範疇を大きく超えていたからだ。 そもそも、垂火が同性愛者であるということ自体がすでに信じ難かった。 凡庸な十七年間を生きてきた達郎にとって、同性愛者というのはチュパカブラよりも得体のしれない、未知の生物のように思えたのだ。 いや、正確にいえば同性愛そのものというよりは、『垂火恭平』という人物とどうしても結びつかないのかもしれない。
 そして、一ノ瀬時子。 彼女は垂火の性癖を知っているという。それでもああして傍にいるというのは、元来我慢強い方だと自負する達郎ですら、とてつもない偉業のように思えた。 なぜなら彼女は女で、それはつまり根本からの否定に他ならない。 それなのに、ああも一途に想い続ける恋情。それはどれだけ激しく、熱いことだろう。


 胸のうちでは、名前の付けられない様々な感情がない交ぜになっている。
 垂火を憎いと思う。時子の気持ちを知りつつ、それに答えようとも突き放そうともせず、独占し続けているのだから。 こいつさえいなければと思うどす黒い気持ちは、常に胸中で渦巻いている。 あの男の自己中心的な責任感と、無駄に残酷な衷情さ。それらが彼女を絡めとる巣になっていることに、なぜ気づかないのだろう。
 だが反面、完全に憎みきれない気持ちもある。持ち得るかぎりの客観性を総動員して考えてみれば、 垂火には自分の質問に答える義務などなかった。 そのことを垂火は指摘できたはずだし、いつもの調子で煙に巻くこともできただろう。 だが、しなかった。言い方は乱暴だったものの、子供扱いもせずに向き合ってくれたように思う。
 寝返りを打ち、達朗は数時間前のことを思い起こした。




 遡ること五時間と二十分前、家庭教師としてやって来た垂火は、顔色の優れない達郎を一瞥してから一枚の紙を差し出した。
「これ、市川から預かってきた公募要項」
「ああ」
「派手に喧嘩したらしいな?」
「うん」
「あいつはバカだけど、仕事に私情は挟まない。落ちても恨むなよ」
「恨まねえよ、ダメもとだし」
 ぶっきらぼうな口調の達郎に、垂火は軽く肩をすくめた。
「先週のこと怒ってる? 悪かったよ、無断で休んで」
「風邪でぶっ倒れてたんだろ?」
「マイナス2度の中で二時間も待ってて平気な誰かさんと違って、俺は繊細なんだ」
「どうせ俺はバカだよ」
「自分でいってどうする」
 いつものように授業が始まる。
 あんな遣り取りがあったというのに、驚くほど垂火は以前となにひとつ変わらなかった。 達郎は覚悟していた。自分たちの関係が今までと違って剣呑なものとなることを。 だが垂火は大人だった。帰り際に、彼はこういったのだ。
「来月からは、違う先生が来るから」
 達郎は閉じかけていた参考書を中途半端な位置で止めた。
「今月一杯で家庭教師のバイトやめようと思ってるんだ。今年で院も終わりだし、本腰すえたくてね。 おばさんにはさっき話しておいたから」
「なんだよそれ……。そんな急に……だってリストもまだ、」
「基礎はそこそこ充分。後は書くことに専念するといい」
「あんなことがあったからか。気まずいから?」
 達郎は混乱したまま、声を荒げた。
「まさか。ただ俺って一応、家庭教師としてここに来てるわけだし、俺のせいでお前の勉強がおろそかになっちゃ本末転倒だろ」
「別におろそかになんか」
「なってんだろー。今日だって全然頭に入ってなかったじゃん」
「それは……」
 垂火は珍しく、少し困ったような顔で笑った。
「大丈夫だよ。次に来る奴はきっとまともだから」
 そういわれて、達郎は二の句が告げられなかった。
 見透かされていたのだ。 抱いていた戸惑いと――差別的な感情を。



「くそ、」
 乱暴に髪を掻き回し、達郎は胎児のように丸まった。
 垂火は、自分たちのことを『共犯』と呼んでいた。『俺には俺の、時子には時子のエゴがある』、とも。 それがどういう意味なのか今の達朗には分からない。分からないが、このまま行けばあの二人の先に緩やかな破滅が待っていることだけは分かる。
 このまま夢の世界へと避難しようとしたが、壁にかかったアナログ時計の針は既に朝の訪れを告げていた。







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