26 - [ 2005年2月 ]

「これは、あなたに捧げる最後の絵になるでしょうね」
 女はややコケットな声でそういうと、その絵を見下ろした。
「怖い絵だね」
 男が静かに呟く。
 深い群青色のビロードを広げたような背景、 それを侵食して広がる様々な色たちは、寄せる波のようにも羽を広げた孔雀のようにも見える。 もしくは黎明の太陽が夜を喰らいつくすようにも。
「あなたの目にはそう映るのね。これは、わたしの見た光よ」
「光?」
 男は自嘲するような口ぶりで彼女の言葉を繰り返した。
「嘘だ。君は僕を許さない。美也を――君の妹を殺した僕を、許すはずがない」
「あなたは殺していないんでしょう? あれは事故だった」
「でも君は信じていないんだろう?」
「あなたが、そう望んでいるからよ」
 ライターの詰め替え式オイルを手に取り、彼女は白魚のようにしなやかな手つきで絵にオイルをたらす。 そしてしゃがみこむと、そっとマッチを擦って、ぽとりと落とした。一気に青白い炎が上がり、徐々に赤味を増す。
「この絵と一緒に、あなたの秘密を殺すわ」
 絵を喰らい尽くす炎を瞳に映して、彼女は呟く。
「僕の、秘密?」
「あの夜、あなたと美也はわたしを殺すつもりだった」
 男は驚きに目を大きく見開く。その唇が、なぜ、と模ったのを見て女は軽く目を伏せた。
「美也はね、ちっちゃい頃から日記を欠かさずつけてたの。 家族の誰にも秘密にしていたけど、わたしは知っていたわ。どうやってあの子がわたしを殺そうとしているのかも、 あの子がどんなにわたしに嫉妬していたことも、知っていたわ。 かわいそうな子。わたしとあなたは手すら握ったことがなかったのにね」
 慄き、燃え上がる絵から――それとも女から――後ずさる男を見て、彼女はふんわりと微笑んだ。
「ごめんね。あなたが妹を殺したんじゃないって、分かっていたのにわたしは何もいわなかった。 塀の向こうで身勝手な自己憐憫にひたって、犯してもいない罪を償うあなたを見ていたかったから」
「君が……」
「でも、もうやめるわ。だからこの絵は燃やすの。あなたの秘密と一緒に、わたしの秘密も殺すの」
「君が美也を殺したのか……!」
 目に激情を宿して男は声を荒げたが、女は答えない。 ただしゃがんで、子どものように純真な眼差しで燃える絵を見ている。
「けどね、やっぱりこれは光なのよ」
 男がそっと彼女の後ろに回る。そして震えた手で縁側に置かれていたオイルを手に取った。 その目は血走り、唇は戦慄き、けれど彼女は気づかない。気づかない振りをしている。
 その白いうなじに冷たい雫が落ちた瞬間、彼女は赤い炎を宿した双眸を静かに閉じる。



「――カット!」
 曾我の声に、ぴんと張り詰めていた空気がゆるむ。 スタッフの何人かが拍手し、主演の女優と俳優は達成感を滲ませた表情で応えた。
「消火器もってきて!」
「すぐチェック入ります!」
「そっちのコード、もう少し引いて!」
 一気に現実に戻った現場を見ながら、時子は内心でその切り替えの早さに舌を巻いていた。 映画の撮影現場というものを見たのは生まれて初めてだったが、その活気は凄まじく、そしてめまぐるしい。 誰も彼もが忙しないエネルギーに満ち溢れていて、圧倒された。
「いやあ、どうなるかと思ったけど、無事に一発取りできましたね」
 宛がわれた少し離れた場所で、撮影を見学していた時子に、中年のスタッフの一人が話しかけた。 何度か電話口で話したことのある男だ。元々、一枚目の絵の回収も曾我ではなく、彼が来るはずだったと聞いている。 会ったのは今日が初めてだった。
「今更ですが本当によかったんですか? 監督って映画のことになると、ちょっとぶっ飛んでますから。 今はCGでどうとでも加工できるのに、本当に燃やしちゃうなんてねえ」
「いいんです。あの絵はこの映画のためだけのものですから」
 時子は手渡された紙コップを受け取り、タールのように濃いコーヒーをすすった。 カフェインに舌が微かにひりつく。
「いやでも、映画が売れれば相乗効果ですっごい値がついたかもしれませんよ? もったいないなあ」
「いえいえ、撮影現場を見学させていただけただけで、充分ですよ」
「はあ。アーティストって感じですねえ」
「そうですねえ」
 どこがどう“アーティストって感じ”なのか時子には分かりかねたが、適当に相槌を打っておく。
「一ノ瀬さん」
 声をかけられ、時子は振り向いた。曾我だった。 連日のハードスケジュールが祟ってか疲労感をまとってはいるが、相変わらず穏やかな目元をしていた。
「無事に燃えましたね」
「はい……ああ、本当にもったいないことをしました」
 本気で曾我が打ちひしがれているように見えたので、時子はくすりと笑った。 絵を燃やすアイディアを話してきたときも、彼は同じような表情をしていた。
「いいんです。燃えることで完成したような気がしていますから」
「ええ……おかげさまで良い画が撮れました」
「撮影はまだ続くんですよね」
「あと少しだけ。物語的には今のシーンがラストになりますが。実はここだけの話、最初の脚本ではちがう結末だったんですよ」
「あ、そうなんですか?」
「ある意味でハッピーエンドでした。 男は別れを告げて去り、彼女は最後の絵と一緒に失意を燃やし、再生の道へと足を踏み出すという」
「なぜ……変えたんですか?」
 曾我は無精ひげの生えた顎をさすって、微笑んだ。
「僕はまだ監督としても人間としても未熟ですが、それでも今まで映画を撮ってきた経験からひとつ気づいたことがあります。 それはね、愛というものには人間の数だけ無限の形があるということです」
 曾我は言葉を切って、長身の身体をやや屈めるようにして時子の顔をのぞきこんだ。
「そして彼女の愛の形は耐え忍ぶことにありました。妄執的なほどに。 彼女がもっとも恐れたことは彼に受け入れてもらえないことではなく、 終止符が打たれることなのです。でも物事にはいずれ必ず終わりがくる。 では、彼女はどうするか――せめて、その終止符を自分の望む形にしたいと思うのではないか。 そう考えたときに、どうやってもハッピーエンドにはならないと感じました。なので、今の形に」
 黙り込んだ時子を見て、曾我は苦笑いを浮かべた。
「やっぱり最初の方がよかったですかね? プロデューサーにも、暗すぎるって散々いわれちゃって」
「いや、そんな」
 慌てて否定してから、時子は気持ちを切り替えて微笑んだ。
「仕上がりを楽しみにしていますね。今回は、こんな素晴らしい作品に参加できてとても光栄でした」
「こちらこそ急な申し出を引き受けてくださって感謝しています。あの、ところで、」
「監督、すみませんちょっと……」
 録音スタッフのひとりが申し訳なさそうに間に入ってきた。そういえばまだ撮影は途中だということに気づき、時子は鞄をもって立ち上がった。
「すみません、長話してしまって」
「え? もうお帰りに?」
「タクシーを待たせているので。 今日はお邪魔しました。残りの撮影、がんばってくださいね」
 会釈をして数歩歩いたところで、再び背後から声がかけられて時子は振り向いた。
「あの!」
「はい?」
「よかったら今夜、食事でもどうですか。その、お礼も兼ねて」
 時子は眉を下げて首を横に振った。
「すみません、今夜はちょっと……」
「そうですか。では、また別の機会に」
「ええ、ぜひ」
 撮影現場を後にする時子の背中を見送りながら、さっきの美術監督の男がニヤニヤとした笑みを浮かべて曾我に近寄る。
「振られちゃいましたねー監督」
 その言葉を聞いて、録音スタッフの青年が色めきたった。
「え! 監督、ああいうのタイプなんすか? たしかに一般人にしては雰囲気ありましたけどォ。 俺、カワイイ系が好きかと思ってましたよ」
「芸術家の女はね、やめといた方がいいよ。もー振り回されるのなんのって……」
「須藤さん、経験ありって話し振りっすねー」
 好き勝手に話している二人を見て曾我は、そんなんじゃないよ、と笑って次の指示を出した。



 タクシーに乗り込み、時子は後部座席にゆったりともたれかかった。
 千葉郊外のこの場所までは、高速を使っても片道で一時間半かかった。 これからまたタクシーでその道程を戻ることになるが、今は何も考えずにただ座っていたかったので好都合のようにも思えた。
 それでも頭の中では、窓の外を過ぎる電柱と同じくらいの速さで、さっきの女優の言葉、表情が映写されていく。

『でも、もうやめるわ。だからこの絵は燃やすの』
『けどね、やっぱりこれは光なのよ』

 最後に彼女は自分が妹を殺したと男にほのめかしたが、 実際のところは彼女は日記を読んだことで殺される危機を回避しただけに過ぎない。 その後、不運にも妹は命を落とすが、それも純然たる事故だった。
 それでも彼女は終止符を自らの手で打つために、そしておそらくは彼の心にひとつの染みを作るために、 あんな選択をした。どうしようもなく自己中心的で、愚かだ。 そうは思いつつ、時子は彼女の頑愚な決断を頭から否定する気にはなれなかった。
 いつのまにか首都高速を下り、見慣れた山手通りに差しかかっていた。規則正しく走る車、歩道を歩く人々。
 なぜ垂火なのだろう、と何度考えたか知れない。 きっとこの中には、もっと優しい人間も、もっと誠実な人間も居るだろうに、なぜ欲しいのはあの男ただ一人なのだろう。
 けれど曾我が言ったとおり、物事にはいずれ必ず終わりがくる。望もうと、望むまいと。 絵と同じだ。もう手を加えるところはどこにもない。そう思ったのならば、どこかで終わらせなければならない。
 十七の時に恋に落ちてから初めて、時子は想像した。 あまりにも不確定な未来、けれどやがて必ず訪れるであろう終着点を。




 彼女がそんな風に心臓を静かに震わせていたそのころ、日本から約8000km離れた遠いポーランドの地では、 ひとりの画家が若者二人にナイフで刺され、この世を去ろうとしていた。 ズジスワフ・ベクシンスキー、享年七十五歳。誕生日の二日前のことだった。
 翌日そのことを知った時子は、長い長い黙祷を捧げた後、画商の長谷川に電話した。 そして以前から話に上がっていた、パリ国際美術コンペティションの締め切りについて尋ねた。







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