「モデル? って絵の?」
やや声のトーンを上げて達郎は携帯電話を持ち直した。
「そう。ダメ?」
受話器越しに甘く囁かれて(おそらく希望的観測だが)、あやうく携帯電話を落としそうになる。
「べ、別にいいけど。人物は描かないんじゃなかったっけ?」
「まあ……心境の変化みたいな。今度、海外のコンペティションに出展しようと思って」
「そういうことなら、俺なんかでいいなら喜んで」
「あ、ちなみにヌードなんだけど」
「やっぱり今のはナシの方向で!」
「いいじゃないの、別に。裸の付き合いはもう済んでることだし。今さら恥ずかしがらなくても」
「そういう問題じゃねーよ!! ……好きな人の前で裸になんかなれるかよ、絶対気まずい感じになるって……」
もごもごとそういうと時子は、あ、と間の抜けた声をあげた。
完全に忘れてやがったなこのヤロウ……と達郎は天井を仰ぐ。そのうえデリカシーの欠片もないときている。
なんでこんな変な人を好きになったんだろうか。今更だが。
「そんなわけで、悪いけど」
「そっか、うん……そうだよね。ごめん、無神経だった」
「いや、いいけど! 全然いいけど!」
いつになく神妙な声で謝られては、なんとなく落ち着かない気分になる。
「でも考えてみてくれない? 達朗が描きたいの。お願い」
恋しく想う人間に、切ない声でそう懇願されて(やはり希望的観測だが)、断ることができるだろうか。
結局それから五分もしないうちに、達朗は根を上げる羽目になった。
「バイトもあるし学校もあるし、あんまし時間とれねーけど、それでもいいなら…」
「ありがとう! 達朗ならそういってくれると思った。出来上がったら何か美味しいもの、おごるよ」
そういわれて達朗は以前一緒に食事をしたときのことを思い出し、そうすると自然にその後のことも思い出した。
いや、別にあの時と同じ展開を期待してるわけじゃ全くないけど! と、誰にともなく胸中で忙しく言い訳をしてるうちに、
「じゃあ、とりあえず今週末にウチに来てね」と時子は言い残して電話を切った。
「……実は計算とかだったらどうしよう」
掌で転がされた気分になった達郎はベッドに倒れこみ、しかし数秒後には両手でガッツポーズをきめていた。
冬の最後の悪あがきのように冷え込んだその週末、ユーフォリアでのバイトを終えた達郎はその足で、十分の距離にある時子の家に向かった。
以前に一度だけ訪れたときとは違って、とてつもなく気が重かった。
それでもやはり心は逸る。
そうか、これが葛藤ってやつか、などと思いながら呼び鈴を押す。
「いらっしゃい」
出てきた時子は外気の冷たさに首をすくめて、達郎を招きいれた。
「これ、店長から。余りものだけど、よかったらって」
「わ、うれしい。なんだろ、ベーグル?」
「正解」
こんな他愛も無いやりとりすら久しぶりで、単純にも心が浮き足立つ。
ガスヒーターをフル稼働させたアトリエは、少し息苦しいほど熱気がこもっていた。
今まで襖や畳に蓄積されてきた絵の具の匂いが、熱によって立ち込めているようだ。
もし空気に色をつけることが出来たならば、きっとこの部屋は極彩色の洪水なのだろう。
「さっそくだけど始めようか」
アトリエの襖を閉めて、時子がいった。
密かに深呼吸をしてから、達郎は決死の覚悟でダウンジャケットのジッパーを下ろす。
が、視線を感じて戸惑いがちに手をとめた。
「……脱ぐとこから見てんの?」
「どうせすぐに全部見るじゃない」
それとこれとは別の問題だ、と思いつつ緩慢な動作で服を脱ぎ捨てる。
下着を脱ぐときはさすがに時子に背を向けたが、だからといってとてつもなく恥ずかしいことに変わりはない。
一糸纏わぬ姿になった達郎は、普段は伸ばしている背骨を曲げて、そろりと振り向いた。
時子は既にクロッキー帳を膝に乗せ、その上にティッシュを広げて鉛筆を削っていたが、ふと顔を上げるとおかしそうに笑った。
「なんで恥ずかしがるの? 綺麗な身体なのに」
「………………あのさ……いや、もういいや」
含羞に耐え切れず、達朗は顔を覆って脱力する。当の時子はというと、まったく気にしていない様子で鉛筆の先で床を指した。
「じゃあ、好きなように座って。人を描くのは久しぶりだからさ、今日はリハビリ。楽にしててね」
達郎は少し迷ってから、時子から見て横向きに、片膝を立てて座った。
「もうちょっと顔をこっちに――そう。体勢、きつくない?」
「大丈夫」
そして時子は線を入れ始めた。時間が経つにつれ、達郎はさっきまで恥ずかしがっていた自分が莫迦らしくなってきた。
時子の表情は真剣で、その目は達郎を素材としてしか見ていなかったからだ。
不思議な感覚だった。今、時子の目には達郎しか映っていない。
他の何も――そして誰も、彼女の視界を奪うことはできない。
その情熱はもちろん、モデルである達郎にではなく芸術に捧げられたものだ。
それでもその事実は、素直に嬉しいものだった。
「なあ、なんで人物を描くの避けてたのか今だったら訊いてもいい?」
「大した理由じゃないっていったでしょ」
「でも聞きたい」
手はとめずに、時子は目だけを達郎に合わせた。
「面白い話じゃないよ?」
構わない、と達朗は答えた。
「わたしに兄がいたのは、垂火から聞いた?」
達朗は頷いた。
「……事故で亡くなったって」
「自慢の兄だった。頭が良くて社交的で、わたしとは正反対。
ちょっと皮肉屋なところはあったけど、わたしには優しかった。
小さい頃からよくモデルを頼んでて、たくさん絵を描いてたの。
写真よりも、わたしが描いたデッサンの方が多かったくらい」
そこで時子は言葉を切って、距離感を図るように鉛筆を空中で縦や横にかざした。
「……写真はいいね。ありのままを映すから。
絵は駄目、気持ちが入り込みすぎてて――兄が死んでから、とてもじゃないけど直視できなくなった。
きっと生々しすぎるのね。だって――」
死に顔は判別できないくらい損傷していたから。
という一言は飲み込みんだ。
「それからは何でか人を描きたいと思わなくなった。
もちろん美大に通っている以上、全くってわけにはいかなかったけど、進んで描く気は起きなかったわ」
「お兄さんのこと、大切だったんだ」
「唯一の肉親だったから。
でもまあ、いつまでも引きずっているわけにもいかないしね。元々、人を描くのは好きだったし、これを機にいい加減ふっきらなきゃと思って。色々ね」
「色々って?」
時子はその問いには答えず、曖昧な笑みでごまかした。
「そういえば達郎も挑戦中なんでしょ。垂火から聞いたよ。お互い良い結果が出るといいね」
「うん」
垂火の名前が出たので達郎はてっきり、家庭教師をやめた件についても触れられるかと思ったが、
時子はそれ以上は何もいわずにデッサンに集中した。
それから、達郎は不定期に時子の家に通い続けた。
やがて学校は春休みに入ったが、予備校の春期講習を受けることになっていたので、あまり頻繁に顔を出すことはできなかった。
達朗にとっては、その方がより長く一緒にいられる時間が続くので都合はよかったが。
時子の家は都会の只中にあるにも関わらず異空間のようで、それは庭を囲む背の高い生垣のせいなのかもしれなかったが、
やはり彼女の生み出す絵画たちが一番の原因のように思える。
そして、たまに部屋に残留している、不思議な匂いの煙草の残り香。
当時の達朗はもちろん知る由もなかったが、大麻だった。
時子は決して達朗の前でそれを吸うことはなかったが、その残り香もまた、達朗をどこか不思議な気分にさせた。
「なんで俺?」
ある日、達朗はそう尋ねた。
「俺より絵になりそうな人いるでしょ?」
「たとえば?」
「たとえば、」
垂火とか。
「……前に話してた、ファッションモデルの人とか」
「なんか誤解があるみたいだけど、わたしはべつに外見的な要素は重視してないの。
描きたいと思えるか、内側に興味を引かれるかどうかが一番大事」
「俺には、時子さんが俺に興味を引かれてるとは到底思えねーんだけど……」
「そう? わたしは時々、達朗の目に焼き殺されるかと思うことがあるよ」
その返答は今までの会話と微妙に繋がってはいなかったが、達朗は弾かれたように振り向いた。
時子が鉛筆の先で、顔の位置を戻すように示唆する。達朗は元通り、背中を向けた。
どうしようもなく嬉しく、どうしようもなく寂しかった。
喜びは、想いが正確に届いていたということに。悲しみは、そのことを彼女はこうも簡単に口にできるのだということに。
その二つの相反する感情は、達朗を少し残酷な気分にさせた。背を向けていなかったら或いは、こんなことをいうのは無理だったかもしれない。
「俺には時子さんの目も、垂火を焼き殺そうとしてるように見える」
今まで澱みなく聞こえていた鉛筆の走る音が途切れた。
「なんでアイツなの。絶対に手に入らないのに」
静寂が落ちた。その静寂の隙間を縫うような声で、時子は尋ねた。
「垂火が、話したの?」
「いや、友人だっていう編集者から」
事実の全てではなかったが、今はそう答えておいたほうがいいように思えた。
「見込みないだろ……傷つくだけだ」
その言葉こそ彼女を傷つけると分かっていて、達朗はそう呟いた。我ながら情けない声だと思ったが、どうしようもなかった。
背後で彼女が立ち上がる音がして、ライターを擦る音が聞こえた。
達朗が振り向くと、今度は時子も体勢を戻すようにはいわなかった。思案気な、ゆっくりとした動作で隣に座ると、達朗の頭に手を置いた。
「達郎。あんたは本当に良い子。優しいし、人として大事なものが何かちゃんと分かってる。
今、十七歳だっけ? こんなところで、わたしみたいな人間に関わっているより、もっと他にやりたい事や大事な事があるでしょう?」
「あんたは自分の価値をわかってない」
後頭部に沿えられた細い手をとり、達朗は強く否定した。
時子は駄々をこねる子どもを見るような、戸惑った目で達朗を見た。
「わたしは、どうしようもない人間だよ。卑怯で臆病で、だらしない」
「だから何。俺はそんな時子さんが欲しいんだ」
そう言い切った達朗の目の強さに、その目の奥に燃える熱に、時子は思わず気圧された。見惚れたといっても、いいかもしれない。
いつもならばその力強さを、若いなと微笑ましくすら思うのに、今はそうは思わなかった。
ただ、その硬骨なまでの真摯さが胸を突いた。
この子は本気なのだ。
いま初めて、時子はそう思い知っていた。
「あんたも垂火も見ない振りをしてるけど、いつまでもこのままで居られるわけじゃないだろ? それくらい俺にだってわかる」
「……やめて」
手首を握る力強さと高い温度に、時子はうろたえた。
この先に続くであろう言葉を聞きたくなかった。
「垂火を好きでいる限りあんたは自分を否定し続けることに、」
「やめてよ!」
時子は叫び、手を振り払った。心臓がおそろしく鼓動を早めている。
空いていた方の手にもっていた煙草が畳に落ちて、表面を焦がした。
唇を微かに震わせている時子を見て、達郎はようやく言いすぎたことに気づいた。
激しく後悔しながら、ごめん、と口の中で呟いてから服を着る。
「……今日は帰る。明日は来れないけど、明後日は大丈夫だから」
そういって出て行こうとする達朗の背中に、待って、と時子は声をかけた。頭で考えるよりも先に口から出た言葉だった。
振り向いた達朗の顔は、不安と後悔が入り混じっている。
それを見た瞬間、強い罪悪感が激しく心を揺さぶった。
「……明後日は、夕方の七時までは出てるから。それ以降に来てくれる?」
結局メールで済むような必要事項を伝えると、達朗はぎこちなく頷いた。
玄関の扉が閉まる音を聞きながら、時子は手首の熱を持て余していた。
今まで、達朗が向けてくるどんな言葉も、表情も、瞳の熱も、曰く思春期の少年にありがちな他愛ない惑乱だと決め付けていた。
なぜ忘れていたのだろう? 自分が恋に落ちたのも、あの子と同じ十七歳だったのだ。