28 - [ 2005年3月 ]

 タクシーの中で、垂火恭平はなかなか変わらない赤信号を見るともなく見ていたが、 やがてしびれを切らして後部座席から身を乗り出した。
「ここで降ろしてもらえます?」
「構いませんが帝国ホテルはもう少し先ですよ、お客さん」
「いいんだ」
 メーターを確認して垂火は財布を開いた。
「誰にでも、ちょっと散歩するぐらいの自由はあるってね」
 初老の運転手は脈絡のない言葉にやや不思議そうな顔を見せたが、すぐに都会人らしい我関せずの笑顔で釣りを渡した。



 小春日和の真昼の銀座はパっと見た限り、平和の縮図だった。 毎回思うことだが、不思議と銀座では男の印象が薄い。 多様に華やかな女たちに比べ、男はみんな同じ雰囲気を纏っているように思える。
 イブサンローランのレザージャケットを着た、マネキンのように細い女とすれ違う。 その一部の隙もない美しい女を横目にして、ふと垂火は軽い厭世観にかられた。 美しくカットされたダイヤの指輪や、一流のファッションデザイナーがデザインしたバッグ。 それらにいくら札束を積もうと死んだらそれで終わり、あの世にまで持っていけるわけではない。 人間は身ひとつで生れ落ち、身ひとつで去ってゆく。
「と、分かってても欲しくなるから厄介だ」
 H&Mのショーウインドウに飾られた春物のジャケットを見て、垂火はぼやいた。 少し寄って行こうかとも思ったが、あいにく待ち合わせ時間が迫っていたのでそのまま通り過ぎる。
 帝国ホテルに着いたとき、腕時計の針は約束の時間の三分前を指していた。 ロビーラウンジで本を読んでいるスーツ姿の女の真向かいに、ゆっくりと腰を下ろす。 テーブルには紅茶と、二口ほど口をつけたサンドイッチが乗っていた。 寄ってきたウェイターにコーヒーを頼むと、ようやく女が本から顔をあげて垂火を見た。
「来たんなら声くらいかけなさいよ。驚くじゃない」
「入ってきたときこっち見てたじゃん」
「なんだ、気づいてたの」
 女はページに中指をはさみ、本を閉じた。 ちらりとタイトルを覗き見ると近ごろ話題のビジネス本で、垂火も以前に一度目を通したことがあった。 視線に気づき、彼女は肩を軽くすくめると本をハンドバッグに仕舞う。
「なんでこんなモノが売れるのか分からないわよね。 言い方をを変えてるだけで、そのまんまマイケル・ポーターのパクリだもの」
 さて、という風に女は垂火を見てにっこりと微笑んだ。
「久しぶり。あんたときたら、全く実家に寄り付かないんだから」
「絢乃姉さんもでしょう」
「だって母さんがね……顔をあわせるたびに子どもはまだかって煩いんだもん。参るわ」
「そりゃ結婚してもう五年経つんだし、アラフォーだし」
「誰がアラフォーよ、まだ三十六だっつの」
「“もう”三十六なんじゃないの。母さんにいわせたら」
 垂火絢乃は煩わしげに眉を寄せてヴィトンの煙草ケースを手に取ったが、中身はあいにく空だった。
「恭平、煙草もってる?」
「もってるけどメンソールじゃない」
「使えないわねぇ。じゃあいいわよ」
「この前、禁煙するっていってなかった?」
「予定はあくまで未定よ」
 赤いルージュの唇をちょっと尖らせて、絢乃は紅茶のカップを持ち上げた。 芸術的に整えられた長く、赤いネイル。
「母さんから聞いたわ。国会図書館の採用試験、受けるんですって? アンタ、相変わらず本が好きなのね。 強烈にリアリストのくせに」
「だから本が好きなんだよ。再来月に一次試験が始まるから、こんなところで油を売ってる場合じゃないんだ。話って何」
「せっかちねぇ」
 形のよい眉をひょいっと上げ、まあいいわ、と絢乃はやや声のトーンを落とした。
「うちの旦那が今度、貿易関係に手をのばすことになってね。ベルリンに会社の支部を作ろうと思ってるの。 あんた、ドイツ語も英語もできるでしょ? 手伝ってほしいのよ。働き如何では、支部長なんてすぐよ。悪い話じゃないと思うけど」
「お断りしまーす」
 身も蓋もない返答に、絢乃は気分を害したように口を曲げた。
「なんでよ。超優遇よ、これ。身内じゃなきゃ絶対ありえないんだから」
「それって数年前に名義だけ作って実際は空っぽだったヤツだろ。税金対策にさ」
「なんだ知ってたの。でも、いよいよ始動する時が来たってわけ」
「どうだか。それにそもそも俺は日本を離れる気はないんだよ」
「このグローバル化の時代に何いってんのよ。 それに、あんたにとっちゃヨーロッパの方が都合がいいんじゃない?」
 ウェイターが運んできたコーヒーに口をつけ、垂火はちらりと姉を見た。
「どういう意味?」
「やり易いんじゃないってこと。色々とさ。向こうは日本よりも同性愛者の偏見は少ないらしいし、ね?」
 垂火は僅かに不快な表情を浮かべた。それに目敏く気づいた絢乃は、楽し気な口調でさらにこう言い募る。
「あんた、まだ父さんたちに話してないんでしょ? 一生、隠し通せるとでも思ってるの? なんなら、あたしから言ってあげようか」
「脅しってわけ。実の弟に向かって恐ろしいなァ」
「いやあね、人聞きが悪い。お姉ちゃんは心配していってるの」
 爪の色と似通った赤い唇が勝気に弧を描くのを見ながら、垂火は何気ない様子で「そういえば」と話を変えた。
「最近、頻繁にホストクラブに通いつめてるんだって? 歌舞伎町のーなんていったっけ、そうそう『パラダイス・ネスト』とかいうベタな名前のクラブ」
「……それが何」
 絢乃は乗り出していた身を引いて、警戒の色も濃く垂火を睨んだ。
「いくらホストっていってもさァ、成人まもない子を愛人にするのはさすがにマズイでしょ。我が姉ながらひくわ〜」
「なッ……! ちょ、ちょっとアンタ、どこでそれを、」
「俺も歌舞伎町にはよく行くから、まあ自然と?」
「嘘ついてんじゃないわよ! そんなぽろっと手に入るようなネタじゃ、」 
 押し殺した声で絢乃は怒鳴ったが、隣でアフタヌーンティーを楽しんでいる老夫婦の視線に気づき、口を閉じた。 気分を落ち着かせるように鼻から深く息を吸い込んで、人差し指をこめかみに当てる。
「分かった。強制はしない。でも考えておいて。それでいい?」
 垂火はにっこりと微笑んだ。
「あんたには文学なんてモノよりも、こっちの世界の方が向いてるわよ。身内贔屓じゃなくね。 その図太く捻じ曲がった根性と、いかにも無害そうな仮面の下の腹黒さ。絶対に登りつめられると思うんだけどね……」
「たしかに身内贔屓じゃないけど、人として貶してるよね」
 呆れ果てた声で垂火は呟く。
「いつの間にか、ずいぶん厭味ったらしく育ったもんだわ。 そういう、あらかじめ手元にカードを隠して理詰めで要求を通すとこ、父さんにそっくり。 どんなに反発し合っていても結局、血は水より濃いってやつなのかしらね」
「ぞっとするようなこと言うなよ。それと使い方、微妙にちがうから」
 嫌悪感に眉をひそめた垂火を見て、絢乃はふっと鼻で笑った。
「昔はあたしの言うことは何でもきく、かわいいお人形だったのに」
「少年もいつかは大人になるんだよ、姉さん」
「だから子どもなんて欲しくないのよ。いずれは大きくなって掌には収まらなくなるんだから」
 少女のような拗ねた口調に、垂火は思わず吹き出した。
「それなら女の子を産めばいいじゃん」
「そっちの方が厄介よ。家に自分以外の女がいるなんて考えたくもないわ」
「姉さん、子どもだなァ」
「あんたに言われたくないわよ!」
 そう叫んでから、話は終わったとばかりに絢乃は立ち上がりかけたが、ふと思い出したという様相でもう一度ソファに腰を下ろした。
「そういえば恭平、あそこの店とはまだ付き合いあるの? ホラ、高校の頃によく入り浸ってた喫茶店」
「近くに住んでるし、よく顔出してるけど」
「あそこのベーグル、奇跡的に美味しかったわよねぇ。 今度、場所教えなさいよ、忘れちゃって――じゃなかった。あの店に若い男の子が働いてたでしょ、ウェイターの」
「ああ、いたけど」
 垂火はやや硬質な声で、コーヒーカップを持ち上げた。 だが、次の絢乃の言葉で凍りついた。
「あの子、この間見かけたわよ」
 コーヒーを飲み込もうとしていた唇が、ひくりと動く。
「びっくりしたわ、今はホストやってるのね。あんまり水商売とは縁がない雰囲気の子だったけど…って、ちょっとねえ、聞いてるの」
「……見間違えじゃないの。大体、姉さんが会ったのって軽く七年も前の話だろ」
「莫迦にしないでよ。一度会った人間の顔は忘れないのがあたしの自慢なんだから。 しかもあんなイイ男、忘れるわけないでしょ」
 きっぱりと言い切る姉の言葉に、垂火は眩暈すら覚えた。
 誰か、ちがう人間のことをいってるのか? だが、あの時期ユーフォリアのウェイターは時生だけだった。 それとも、違う店と勘違いしているのか?
 一ノ瀬時生は死んだ。間違いない。事故で。死体だって見た。――顔は潰れていたが。そう、潰れていた。 時子ですら確認できない、酷い有様だった。だが背格好も、着ていたスーツも、財布の中身も、その顔のない死体が一ノ瀬時生だと告げていた。

 だが、顔は見ていない。

 指が震えそうになってきたので、垂火はコーヒーカップを置いて、最大限の努力で平静を保ちつつ店の名前を尋ねた。
「『ジャドール』ってクラブ。あたしの行きつけの店とは姉妹店なの」
「……ホストの名前は?」
「さあ。そこまでは知らないわ、写真で見かけただけだし」
 写真。それならば見間違うこともないとは言い切れない。
 絢乃が去ってからも、しばらく垂火はソファのその席から動くことができなかった。 さっきのウェイターがコーヒーカップを下げにきて、プライスレスの笑顔で「おかわりはいかがですか?」と話しかけたが、それすらも無視して垂火は壁の一面を彩るガラスブロックのアートをぼんやりと見ていた。
 頭には相反する単語たちが、交互に点滅を繰り返している。
 まさか。ありえない。もしかして。他人の空似だ。
 けれど。







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