29 - [ 2005年3月 ]

 春季講習の帰り、書店で参考書を物色しながら達朗はもう何度目か分からない溜息をついた。
 規定のものだけでは追いつかず、自習用にと参考書を選びに来たのだが、 どの本も自己主張ばかりが強く(『サルでも解る物理!』や『笑いが止まらない年号暗記法!』など)、 どれを買えばいいのか皆目検討もつかない。塾の講師に訊いておかなかったのが悔やまれる。
 垂火恭平という優秀な家庭教師がやめた後、母親と話し合ってこれからは家庭教師ではなく塾に通うことにした。 そもそも母子家庭である草薙家に家庭教師というのは些か家計を圧迫していたのだ。 とはいえ、母親はいまだに「垂火くん惜しかったわねえ」といい続けているのだが。
 ちなみにあれ以来、垂火とは連絡をとっていない。携帯に保存されたままの番号は一度も鳴らされることなく、 たまに眺めるだけの数字の羅列に成り下がっている。


 参考書選びは明日に持ち越すことにしてコミック本のコーナーに向かおうとしたが、ふと思い立って達朗は美術系のフロアに向かった。 だが、目を皿のようにして探しても目当てのものは見つからない。 店員に尋ねると、「該当する画家の書籍はございません」という素っ気ない返答だった。
「まあ時子さん、あんまり売れっ子って感じには見えないしな」
 結局手ぶらで書店を出たとき、思いがけない人物に出くわした。
「あ」
 と達朗はいい、
「げ」
 と垂火恭平はいった。
「げって何だよ」
「お前もよく俺に向かっていってたじゃん」
 垂火は面倒くさそうな口調でそういってから、元気か? と尋ねる。
「え、うん」
「そりゃ何よりだ。じゃあな」
「え……ちょ、ちょっと! おい!」
 しばらく呆けてから達朗は垂火の後を追う。 確かに気まずい別れ方はしたが、約二ヶ月ぶりの邂逅に対していくらなんでもその態度はないだろうと思えた。 だが当の垂火は足も止めずに、それどころか、やや煩わしげな視線をよこした。
「何か用? 俺、急いでるんだ」
「久しぶりに会ったってのに何だよ、それ。ちょっと心配してたのに、」
「心配? なんの」
 問われて達朗は口ごもった。
「……なんか、踏み込んだこと聞いちまったかなって。別に謝る気はないけど――ってオイ、聞けよ!!」
 と、そんな会話をしながらも二人はいつのまにか代々木を抜け、伊勢丹を通り過ぎていた。 わずかに茜色が残る夜空と、眩しくなってきたネオンの隙間を縫うようにして垂火は歩く。その後を追いながら達朗は尋ねた。
「なあ、どこ向かってんの」
「カブキチョー」
「歌舞伎町?!」
 補導でもされたら一発じゃねーか、と達朗は恐れ戦いたが、 その時には垂火の様子がいつもと違うことに気づいていたので、結局はずるずるとその後を追い、 五分もすると『歌舞伎町一番街』のネオンの下をくぐり抜けていた。
「なあ、それでどこ向かってんの」
「ホストクラブ」
「ホストクラブ?! マジで!?」
 ホストクラブって……え、よく行くの? つか男でも入れんの?
 と、背後で一人うろたえまくっている達朗に、心底うんざりしながら垂火は歩調を少し速めた。 そして今更になってようやく、なんでこいつは付いて来てるんだ? と考えた。
「おまえ、なんなの? 帰れよ受験生」
「ようやくそれかよ。今日のアンタ、超絶に変だぜ」
「まあ、いいけど。おまえが補導されようが、それで内申書に傷がつこうが、俺には何の関係もないし」
「あっそ」
 垂火は普段はしないような露骨な渋面を浮かべると、また踵を返した。 好きにすればいいさ、と胸中で肩をすくめる。そのうち飽きて帰るだろう。


 前もって調べた住所は、区役所通りから少し逸れた場所にあった。 雑居ビルの地下一階、黒の看板に金の飾り文字で『CLUB J'adore』書かれている。 看板の感じと入り口の雰囲気から、そこそこ高級感の漂うホストクラブだ。男ひとりで入るのは難しいだろう。
 垂火はコートのポケットからポールモールを取り出し、火を点けた。 煙草を一本吸う間に通りを過ぎてゆく人間たちを物色して、やがて狙いを定めるとひとりの女に声をかけた。
「ちょっとすみません」
 声をかけられて女は煩わしげな顔を向けたが、 どう見ても垂火がキャッチには見えないと判断すると、今度はやや訝しげな表情を浮かべた。
 二十代前半くらいで長い茶髪をがっちりとカールした、派手な身なりの女だ。 豹柄のミニスカートから伸びた肉付きのいい足は、ラメ入りのストッキングによって艶やかな光沢を放っていた。
「今からちょっと時間あるかな」
「え、なに。ナンパ?」
「そんなとこー」
 色めき立つ女にこの上なく甘い笑みを浮かべて、垂火はクラブ・ジャドールを指差した。
「実はそこのホストクラブに弟が勤めてんだけどさ、なんか心配で。 様子見たいんだけど、男ひとりじゃ入れないじゃん? 一緒に入ってくれないかなって」
「えーでもユカ、今から仕事なんだよね」
「そこをなんとかお願いできないかなぁ。 アイツ、鈍くさいしバカだしノリ悪いし、ちゃんとやっていけてんのか心配なんだよね……」
「やっだぁ。めっちゃイイお兄ちゃんじゃん」
「でしょー?」
「もちろんオゴリだよね?」
「好きなだけ飲んでいいよ。あ、でもこんな可愛い子連れてたら、弟に妬まれちゃうなァ」
「やっだぁ!」
 女は満更でもない様子で垂火の腕に紫のネイルの手を絡めた。
「ねー名前なんていうの?」
「恭平だよ、ユカちゃん」
「え、すっごい! なんでユカの名前知ってんの〜?」
「さあ、なんででしょー」
 そんな一部始終を達朗は少し離れていたところで見ていた。大人って……と、白い目を向けながら。
 連れ立ってビルに入る際、垂火はちらりと達朗を見た。 その目は『てめーはさっさと帰れ』といっていたが、達朗は少し考えてから斜め向いにあるコンビニに入った。




 それから約一時間後、いい加減に店員の目が気になってきたころ、ようやく垂火がふらりと雑居ビルから出てきた。 達朗は読んでいた漫画雑誌を適当に棚に突っ込み、コンビニを出た。
「あれ、あの女は?」
「どの女」
「あんたと一緒に入って行った女だよ」
「お姫さま気分で楽しくやってるよ」
「置いてきたのかよ。おごるとか言っといて」
「黒服に二人分の金は預けてる。あれで足りなきゃ、」
 知るか、というまえに唐突な吐き気がこみあげて、垂火は口元を押さえた。 覚束ない足取りで路地裏に駆けこみ、身体を二つに曲げて嘔吐する。 胃からは少しだけ口をつけたジン・トニックと、あとは胃液しか出てこなかったが、それでも吐き気は収まらず何度もえずいた。
「おいおい飲みすぎかよ? 情けねーな」
 少し笑いながら達朗は垂火の背をさすろうとしたが、ものすごい勢いで振り払われたので地面に尻餅をついた。
「なッ…」
 なにすんだよ、と叫ぼうとした達朗はしかし、垂火の顔を見てぎょっとした。 肌は蒼白で幽鬼のように生気がなく、怯えとも怒りともしれないような目をしていた。
 咽喉に手を当てて、垂火はずるずると路地裏の汚い地面にしゃがみ込んだ。 質のいいコートの裾がさっきの吐瀉物で汚れる。
「おまえは……いつまでいるんだよ。いい加減に帰れよ」
「いや、でも」
「帰れっていってんだろ殴るぞ!!」
 その凶暴さに達朗は内心かなりうろたえたが、それでも直感的にこの男をここに一人残して帰るわけにもいかない気がした。 なので、少し離れた場所で(万が一襲いかかってきても対処できるように。脅しだとは思うが)、同じようにしゃがみ込んだ。


 垂火は両手で顔を覆ったまま身動きひとつしなかった。
 ホストクラブに居た件の男は、もちろん全くの別人だった。 いや、顔立ちだけ見れば、たしかに絢乃が見間違うのも納得できるほどだった。 血の繋がった時子はともかく、赤の他人であそこまで面影が濃いのは奇跡に近いようにすら思えた。だが、その中身。
 一目見て、すぐに分かった。似ても似つかない。その過剰に着飾ったホストは軽薄で、 ある意味清々しいくらい俗物的で、香水と札束の匂いを鱗分のように振りまいていた。
 時生の生き写しのようなその男が、甘ったるい笑顔で酒を注ぐのを見ながら垂火は、 今まで考えもしなかったことを考えた。いや、考えたというよりも、思い当たったという方が正しいのかもしれない。 唐突にひとつの事実に思い当たったのだ。
 望もうと望むまいと、死人を永遠に想い続けることなど出来やしないのだと。

 八年。長いとは感じなかったが、決して短すぎる時間でもない。
 少なくとも、気持ちの変化に気づくくらいには。 ドッペルゲンガーかと思うほど顔立ちの似た人間を見ても、愛おしさよりも懐かしさが先に来るくらいには、決して短い時間ではなかった。
 時折、記憶の蓋を開けて、取りだして追慕に浸る。 こちら側に残された者に出来ることはそれだけで、いずれは誰もがそうなる。 どんなに過去に縋りつこうとも、繋ぎ止める手段として時子を利用しようともだ。
 彼女はきっと、それでいいというのだろう。それで構わないと。 あの日、火葬場でいったように。今まで互いがそう望んできたように。
 あの時は悔やんだりしないと思った。選択に責任を取れるとも思った。 けれど今の自分の、この惨めさはどうだ? 罪悪感と後悔に押しつぶされそうになっているこの姿を、十八歳の自分に見せてやりたい。
 あの時、誠実に向きあうべきだったのだ。 たとえ深く傷つきあっても、流れゆく時間がゆっくりと癒したはずなのに。



 そんな風に垂火が呻吟している間、達朗はやることもなくポケットに入っていた携帯を開いたり閉じたりしていた。 最初はなにか気の利いた言葉でもかけようかとも思ったが、垂火のスパルタ教育によってボキャブラリーが格段に増えたにも関わらずそんな言葉は見つからず、 結局は貝のように押し黙っている。
 一体全体、この世の何がこの男をここまで打ちのめすことができたのか、達朗には想像すらできなかった。いつもの飄々とした雰囲気はもはや見る影もなく、 うずくまる姿はまるで捨てられた子どものように見える。だがその姿は逆に、達朗に不思議な親しみを抱かせた。 今ここにいるのはただの、ひとりの傷ついた人間だった。
 やがて手持ち無沙汰になったので達朗はなにげなく口笛を吹いた。 たどたどしい旋律のそれは、ネバーランドの場所を歌う有名な曲だ。
 しばらくして落ち着いてきた垂火は、ぼんやりとしゃがみ込んだままの体勢でその掠れた音色に聞き入った。 猥雑で不衛生な路地裏には場違いだったが、だからこそ疲弊した心には染み入った。
 夜空を見上げる。星が見えたならと思ったが、ビルの隙間から仰ぐ長方形の空はスモッグとネオンで、ぼんやりと赤味を帯びているだけだった。







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