ジノの背中が視界から消えたと同時に、シャーネは磨いていた剣を脇に置いた。
ジノが隣からいなくなったことで寒さが増した気がする。もう春はとっくに来ているというのに。きっと夜風のせいばかりではないのだろう。
疲労感に目頭を指で押さえれば、さっきまでの戦闘が瞼裏によみがえった。
顔にかかった血飛沫の生暖かさ。
自分を庇って串刺しにされた男の苦悶にゆがめられた顔。
千切れ落ちた手に嵌められていた、血に染まった指輪―――。
知らず、身体が震えはじめる。どうしようもなく、怖かった。
自分が死ぬことではない。自分以外の人間が死ぬことが怖い。
状況はあきらかに全滅の道しか残されていないように思えた。ジノも飄々とした態度を取ってはいるが、そのことを覚悟している。
だからこそ、この状況下だというのにあんな風に軽口を叩いて自分を気遣ってくれている。乳母兄弟だったために誰よりも多くの時間を共に過ごしてきたのだ、お互いの考えていることは大抵わかる。
幼い頃は野山を遊び場に色々と無茶をして、周りの大人にこっぴどく叱られたものだ。そういえば一度、熊に襲われかけたこともあった。
よく生きて帰れたものだと考えて、脳裏にふと過ぎった記憶があった。
*****
『いいか、シャーネ。おれがアイツを引きつけるから、お前はその間に山を下りろ』
ほんの数メートル先でじっとこっちを見つめる熊から目を離さず、ジノは言った。シャーネは一瞬驚きに目を見開いたが、すぐにジノの腕にしがみつく。
『無理だ、ひとりでなんて。だって熊って馬よりも速くて、口から炎を吹くんだって母さまが言ってた! ジノなんてすぐに丸焼きにされちゃうよ』
『え、あれ……そんなだったっけ、熊って』
ジノは、褐色の肌でもそれとわかるくらいに蒼白になり、腰が引けたように熊を上目遣いで見た。
『しかも大人の熊は背中に翼がナイゾーされてて、空も飛べるんだって。やだよ、ジノ死んじゃう。一緒に逃げようよ』
シャーネは、黒々とした大きな双眸からボロボロと涙を流しながらジノに訴えた。ジノはそれを聞いて更に青ざめ、腰に下げた短剣を握る。玩具まがいのこの武器では到底、勝てそうにない相手に思えた。
『シャーネ』
しゃくり上げ始めたシャーネの頬に暖かいものが触れた。
顔を上げると、
ジノが両手でシャーネの頬を包みこんでいる。
自分の瞳よりもずっと馴染み深い、赤みを帯びた茶色い目がまっすぐ見つめていた。
『おれは将来、誰よりも強い騎士になる男だぞ。こんなところで死ぬわけねぇだろ。それに、
女を守れない男はナメクジ以下だって、父ちゃんも言ってた』
明らかに怯えているくせに、ジノはそう言って引きつった笑顔を浮かべた。
いや無理だろうと内心シャーネは冷静に思っていたが、それでもそんなジノは頼もしく、尊敬の念を覚えた。
結局、熊はそんな遣り取りをしている間にどこかへ行ってしまっていて、成長してからはあの話が自分たちを山に行かせないようにするための母親の嘘だったということもわかった。
けれど、もし事実をそのときの自分たちが知っていたとしても、或いはその話が本当だったとしても、きっとジノは同じセリフを同じ表情で言っただろうと思う。
あの時の言葉どおり、今ジノは数々の戦歴を讃えられ王から名誉騎士の称号を受けた身だ。シャーネ自身も軍師として共に戦場を駆ける日々を送った。
ジノの隣は心地よく、一緒にいればどんな危機的状況にあろうとも絶望することはなかった。ずっと隣にいられると思っていたし、約束もした。きっとジノにとっては他愛もない口約束だったのだろうけど。
しかし、その約束をまさか自分から破ることになろうとは思わなかった。いや、実際には知っていたのだ。いつまでもこんな風に戦場を駆けてばかりはいられないと。頭で知ってはいたけれど、理解はしたくなかった。
ジノと戦場に出るのは今日が最後だ。万が一、この戦いを互いに生き延びることができたとしても、その先に一緒にいられる未来はない。
こんな風に原始的に、目に見えてわかる位置には居られない。
手を伸ばせば触れることのできる位置には。
沈む思考に終止符を打つように、シャーネは硬く目を瞑った。再び開いたとき、その漆黒の双眸に曇りはない。
腰に巻いたポーチから羊皮紙を取り出して淀みなく文をつづる。最後に自らの名を慎重に記すと、自分の後方に控えているであろう人間に声をかけた。
「使者の用意を」
暗がりから音もなく姿を現した男は、悲痛に満ちた目をしていた。
いつもならばすぐに承諾の言葉を返す男が、
こうして何も言わないのは初めてではないかとシャーネは考え、それが不謹慎にも可笑しく感じられた。
「行かれるのですか」
「行かなければ全滅だ。これ以上の犠牲は無意味でしかない」
「ですが、」
「カルマ・バール」
諭されるように名前を呼ばれ、男は俯いた。
「皆には知られたくない。使者の人選は口の堅い者にしてくれ」
「せめてジノを連れて行かれては……彼はあなた直属の騎士なのですから」
「だめだよ。アイツは野生児なんだ。私の命と引き換えの降服だなんて聞いたら、きっとその場で暴れて手に負えない」
苦笑するシャーネを見て、カルマは目を伏せた。その笑みは儚く、しかし神々しいほどに美しく見えた。
「あなたを止めるすべを持たない自分が、恥ずかしい」
「そんなことはない。お前には最後まで私に付き合ってもらうよ。
証人がいるからな。一緒に来ておくれ。この時点での降服を向こうが受け入れるとは限らない。その時はあの世で宴でもしよう」
「それは光栄ですね」
頬を緩ませたカルマに、では頼むとシャーネが密書を渡すと、
彼はすぐにまた顔を引き締めて頭を下げた。
「……確かに承りました、王陛下」
低く呟き、また闇に溶けた男を見送り、シャーネは西の空に目をやった。陽はすでに落ち、夜の気配が色濃く漂い始めている。
――王、と呼ばれたのもわずか半年だったな。
自嘲の笑みを口の端に浮かべ、シャーネは再び剣を手に取った。王家に代々伝わるこの剣も、ここで自分と葬られることになるのだろうか。