10 - [ 2004年9月 II ]

 一週間後、いつものように時子が喫茶店ユーフォリアに顔を出すと、ウェイター姿の達朗がいた。 白いシャツと、腰には黒いショートエプロン。時子を見ると名に食わぬ顔で片手を軽く上げた。 やあ、という風に。
「……ちょ、ちょっと小夜さん」
 時子はカウンターまで進むと背中越しに小夜を呼んだ。
「なんであの子がここに?」
 常連客の老婦人にたどたどしく注文を聞いている達朗を横目で見ながら、小さな声で小夜に問い詰めた。 小夜は相変わらずのふんわりとした物言いで、バイトよ、と事も無げにいう。
「ほら、表にバイト募集の広告を貼ってあったでしょ?」
「あったっけ? そんなの」
「あったわよぅ。ほら、前の子がすぐ辞めちゃったから新しく募集しようと思って。 このまえ帰り際にそのちらしを見たみたいで、翌日にここで面接して採用」
「そんな簡単にさぁ」
「だって採用しない理由がないもの。礼儀正しいし、不器用そうなところがかわいいじゃない。 あれは将来、色気が出るタイプね」
 どこかで聞いたようなその評価に時子は曖昧に相槌を打った。
「それに若い男の子がいるとお店も活気づくわ。お客さんも増えるかもしれないし」
「道楽っていってたじゃない」
「繁盛するに越したことはないの! アイスラテ?」
「あ、うん」
 時子は肩越しにまだ注文をとっているらしい達朗をそっと伺った。 あの老婦人は耳が少し遠いゆえに、喋り方もおぼつかない。 彼女の漏らす一言一言を聞き逃さないよう、達朗は少し腰をかがめて注文をとっている。 その生真面目な横顔を眺めながら、時子は達朗と初めて会った日のことを思い返した。
 あの日、最初はあの子が垂火の新しい恋人じゃないのかと思ったのだ。 だから誘ってみたが、ベッドに入ればすぐに違うとわかった。 達朗は、いい子だ。一見ぶっきらぼうにも見えるが曲がったところがないし、何より健やかさがある。 わたしとはまるで違う。そのことに彼が早く気づいてくれるといいんだが。





「あら小夜ちゃん、新しい子?」
「うちの末っ子と同じくらいかしら。高校生?」
「やっぱり男の子がいるといいわねえ。お名前は?」
「やめなさいよ、怯えちゃってるじゃないの」
 笑いの渦の中、達朗は戸惑ったようにも憮然としたようにも見える面持ちで、メニュー表を片手に所在なく立っている。
 午後三時頃の喫茶店は主婦たちの溜まり場となる。 この近くに有名なフラメンコの教室があって、一汗流した彼女たちは大抵この喫茶店に寄ってお茶とお菓子をつまんでいく。 大体が人入りのすくないユーフォリアは彼女たちの恩恵により、何とか喫茶店としての体裁を保っているといってもいい。
 その大事な常連客らに達朗はいたく気に入られたようだ。パワフルな主婦たちに押されて頬を強張らせている達朗を、 時子は少し離れたカウンター席から見ていた。
「なにか気になることでも?」
 小夜が尋ねた。時子はエクスタシーの煙草に火を点けながら、笑ってみせる。
「何も。ただ、」
「なあに?」
「いや……若いっていいなって」
「何いっているのよ。あなたも充分若いじゃないの。 そういうことは私くらいの年になってからいうものよ」
 そういう小夜がしかし、半ば詐欺ではというほど実年齢と見かけの年齢が異なっているのを知っている時子は苦笑した。 高校生のときからこの店には出入りしていたが、その頃からまるで年をとっていない。 一体どういう魔法を使っているのか同じ女として気になるところだ。
「若さの素晴らしいところは、恐れるものが少ないってところよね」
 小夜は成熟した柔らかな物言いで続けた。
「特に傷つくことを恐れない。大人になれば皆、臆病になるわ。否が応にもね。 それは生きていく上での知恵だから悪いことじゃないと私は思ってるけど、 それでも若い子のまっすぐな視線には圧倒されるわよね」
 なんと答えていいのかわからず、時子はただ灰をトン、と灰皿に落とした。 何もいってはこないが、小夜はきっと何もかもお見通しなのだろう。 時子にとっては昔から頭が上がらない存在だ。おそらく、垂火にとっても。
「そういえば最近、恭ちゃん来ないのよね」
 そう時子が思ったと同時に、絶妙のタイミングでそう小夜がこぼしたので時子は危うく煙草を落としそうになった。 本当にエスパーなんじゃないか、この人。
「元からあいつはあんまり来てなかったじゃない」
「でも週に一回は顔を見せてくれてたのよ。 なのに最近はちっとも」
「家庭教師のバイトを始めたらしいから、それで忙しいんじゃないかな。 達郎も垂火の生徒なんだって」
「あら、そうなの。今度来てって伝えておいて。あ、できれば昼ごろね。 いっつも閉店間際に来るんだから。 皆さんだって恭ちゃんに会いたがってるのに」
 なんでかしらねえ? と首をかしげる小夜に時子は苦笑を浮かべた。 垂火は中年の女性に好まれやすいタチだ、昼時にこの店に来るとどうなるかくらいは承知している。 きっと来ることは来るだろうが、また閉店時に顔をだすだろう。 十代のときは今ほどあしらい慣れていなかったので、よく“おばさま方”にいじられてはうろたえていたものだ。 今の達朗のように。
 あの頃が一番幸せだった。
 兄がいて、垂火がいて、楽しいことばかりではなかったけれど幸せだった。 今となっては思い出は遠すぎて、触れることすらままならない。
 兄が死んで、垂火と一対一で向き合うことになったとき、 垂火を手に入れることが出来たならもう他には何もいらないと本気で思った。 それは今も変わらないが、少し大人になって気づいたこともある。――つまり、誰も誰かを本当に手に入れることなど出来やしないということだ。 それでも私は諦めきれずに、この不毛な関係にしがみ付いている。性懲りもなく。
 愛情が全部、同じ色をしていたらいいのに。
 同じ形をしていて、同じやわらかさを持っていて、それで共有できたらいいのに。






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