外に出るのを躊躇うほど快晴の土曜、達郎は件の喫茶店を訪れた。
新学期も始まり、垂火にカードをもらってから実に二週間近くが経っていた。
学校が始まったことで垂火との授業は週一回になっている。
授業は相変わらずスパルタだが分かりやすく、母親は実力テストの結果に満足したようだ。
垂火との関係も今までと変わらず、けれどあれ以来会話に時子の名前はまだ出ていない。
二週間もの間、達郎はひたすら迷っていた。不安要素はいくらでも挙げることができる。
自分が会いに行くことで彼女を困らせることになるんじゃないか? それどころか、嫌な顔をされたら? これっきりもう会いたくないといわれたら?
けれど結局、達郎はこうして店を訪れたし、もしSF小説によくあるように未来の自分が訪れてこの先に待ち受ける出来事をつぶさに語ったとしても、
やはりもう一度時子に会おうとしただろう。
――っていってもな、普通に考えてタイミングよくあの人が居るとは思えないし……。
しばらく通うしかないか。
などと考えながら、達郎は喫茶店ユーフォリアの扉を開けた。カラン、とカウベルが鳴る。
文明の利器によって冷やされた空気が、心地よく火照った頬を冷やした。
外観のモダンな雰囲気と裏腹に、内装は古いアンティークで統一されている。
かといって洒脱な風ではなく、アットホームで落ち着いた空間だった。
壁には小さな絵が均等間に飾られている。どの絵も幾何学的な模様が描かれたデッサン風な絵で、
想像するにそれなりの絵なのだろうが、あいにく達郎には子どもの落書きのようにしか見えなかった。
「いらっしゃいませ。一名様ですね」
正面奥にあるカウンターの向こう側にいた店員が達朗を見て微笑んだ。
三十代前半くらいの若い女で、こげ茶色に染めた長い髪をゆるくサイドで結んでいる。
「お好きな席にどうぞ」
達郎は少し迷い、カウンターに腰掛けた。テーブルの上のメニューを見て、アイスコーヒーを頼む。
もしかしたら彼女が例の“小夜さん”ではないかと思いながら。
「あの、」
一ノ瀬さんって人よく来ます? といおうとして、海馬から垂火の言葉が蘇った。
『最近ストーカーになる若者が多いってテレビでいってた』
……いや、違う。俺は違うし。
『大抵、皆そういうらしいんだよね』
…………。
何といえばいいものか口ごもる達朗を急かさずに、女は柔らかな笑みをたたえたまま待っている。
垂火の名前を出していいものかどうか、達郎が逡巡していると、店内の奥、おそらくは客用トイレのドアが開いた。
店員の女が振り向き、つられて達郎が目を向けると、一ノ瀬時子が立ち尽くしていた。
その表情はつとめて平然としているようにも見えたが、薄く開いた唇は彼女がわずかに驚いていることを示していた。
その瞬間、予想していたものよりも遥かに強い恋情が達朗の胸に押し寄せた。
会ったのはおよそ三週間前だというのに、まるで三百年ぶりに再会したような懐かしさを感じる。
不可思議な感情だ。恋は一体どこからやって来るのだろう? 内から? それとも外から?
しかし時子の唇がきゅっと引き締まったのを見て、達朗は舞い上がっていた心をなんとか地上につなぎとめた。
「垂火……先生から場所を聞いて」
「そう」
「今、話せる?」
「いいよ」
初めて会ったときの研ぎ澄まされたような雰囲気は身をひそめ、それどころか頼りなげにすら見えた。
「時ちゃん、奥の席が空いてるからそっちを使ったら」
二人を交互に見ていた女が微妙な雰囲気を感じ取ったのか、そっと時子に話しかけた。
時子が頷くと、女はおそらく時子のものであろうアイスラテと達郎の頼んだアイスコーヒーを二つ、店内でも奥まった席へ置いた。
「ありがとう、小夜さん」
時子がそういうと、小夜と呼ばれた女は柔らかく笑った。
向かい合わせに腰を下ろし、けれど二人とも何も喋らなかった。
達郎は緊張しながらアイスコーヒーを飲んだ。いいたいことは考えてきたはずなのに、
まるで咽喉に弁が出来たかのようになに一つ口から出てこない。
手持ち無沙汰に、受け皿に乗っていた薄い折りたたんだような形のクッキーを摘み上げる。
そういえばクッキーなんか頼んでいない。おまけか?
「それね、フォーチュン・クッキー」
と、時子が口を開いたので達郎はハッと顔を上げた。
半分に割ってごらん、といわれたので割ってみると中から小さな紙が一枚出てきた。
開くとそこには米粒ほどの字で、こう書かれていた。
Transit umbra, lux permanet.
影は過ぎ去り、光は残る。
悪かったわ、と時子が呟いた。
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「何が?」
達郎は震えそうになる声を何とか抑えて尋ねた。
「あんな風に誘ったこと。あの日はちょっとどうかしてた。もし君に誤解っていうか、
わだかまりを残してしまったんなら謝るわ」
「……そんなこと聞きたくねえよ」
「じゃあ、なんで来たの」
「会いたかったから」
ごく素直に口からその言葉が漏れた。
薄々気づいていたことだが、時子のまえで自分はひどく無防備だ。どうしてこうなってしまうのか分からない。
時子は含み笑った。達朗は気づかなかったが、自嘲の類の笑みだった。
「ねえ、勘違いだったら笑ってほしいんだけど、君はわたしのことが好きみたいに見える」
達朗は少しうろたえながらも頷づいた。
「一度寝たからって簡単に人を好きになるもんじゃないよ。
初めてでもなかったでしょ? それに悪いけど、わたしは君と付き合う気はないの」
まるで予め用意されたように、素っ気なく告げられた言葉に心臓がかっと熱を帯びる。
慣れてるんだ、
と達郎は確信した。つまり、誰でもよかったのだと時子は遠まわしにいっている。
達朗が抱いている想いはセックスに付随したものであって、自分はそれに応えられないと。
強く奥歯をかみ締める。今ほんの少しでも唇を開けば酷い言葉が口をついてきそうだった。
落ち着けと自分にいいきかせる。分かっていたことだ。
初対面の人間をホテルに誘ったのだから誰でもよかったに決まってる。
そう、垂火の代わりになるのなら誰だって。
俯くと、手元にあるさっきの紙が見えた。影は過ぎ去り、光は残る。
達郎は深く息を吸って、吐いた。分かっていたことだ。
分かっていて、それでも彼女に会いたいと思ったんじゃないか。
「知ってるよ。垂火のこと好きなんだって」
達郎がそういうと、時子は目元に微かな警戒を浮かべた。
「……だから?」
「付き合ってほしいなんて、そんなつもりじゃない。
ただ俺はもっと時子さんのこと知りたいし、俺のことも知ってほしい。
理屈で諦められるんなら、わざわざこんなところまで来てねーよ。
迷惑かもしれないけど謝るくらいなら、それぐらい許してくれていいと、思う。
いや別に、謝ってほしくて来たわけでもないけど。だから、つまり」
段々と何がいいたいのか分からなくなってきて達朗が髪をかきむしると、ふいに時子が吹き出した。
「ちょっと、ねえ……自分がすっごい事いってるって自覚あるの?」
「爆笑するようなことはいってない…」
「はは、すごい。ドラマみたい。あーもう、あんな言い方されたら普通さ、もっとこう……怒るでしょ?」
それはつまり怒らせたかったってことか? と達朗は少し勘ぐったが、
この場の雰囲気が前のときと同じ親しげなものに変わっていることを感じ取ったので、口にだすのは止めた。
そんなことよりも嬉しさを表に出さないようにすることに、細心の注意を払わなければならなかった。
正直なところ、この答えがあっているのかどうかは分からない。
だが、今自分がしたいことには違いなかった。
あんたが誰を好きでも“俺は”あんたが好きだし、できれば好きになってほしい。
そのために出来ることは何でもする。
「ねえ、名前を教えてくれる?」
帰り際、時子がそう尋ねた。
いわれて初めて名乗っていなかったことに気づく。
「草薙達朗」
「くさなぎたつろう」
時子はゆっくりと発音した。
その唇に、あの夜は望めば触れることができたが今はこんなにも遠い。
けれど、それ以上に価値のあるものを今は見つけた。
好きな人が自分の名前を呼ぶ。
たったそれだけで、こんなにも満たされた気持ちになれるということ。