12 - [ 2004年10月 II ]

 達郎にとって或る意味で人生の分かれ道となったその日の夜、ちょうど母親は友人と某ヴィジュアル系ロックバンドのライブに出かけていて家にいなかった。 それを聞いて授業に訪れた垂火は、「人は見かけによらないんだな…」と呟いた。
「俺が生まれる前からのファンなんだってさ。半年に一度はライブに行ってる」
 といいながら、いつものように達郎が参考書を開くと、垂火は椅子に腰掛けたまま達郎を小突いた。
「こら、まずは先生にお茶を淹れろ。アイスティーね」
「はあ? 知らねえし、作り方」
「いや、パックのでいいし」
「いや、切らしてるし」
「まずお湯で濃いめの紅茶を入れて、そこに氷とミルクを入れろ」
 達郎は無言で立ち上がった。どうやらアイスティーを手中にするまで授業を始める気はないらしいと悟ったからだ。
「……いっておくけど、部屋のもん勝手に触るなよ」
「失敬な。俺は大人だよ」
「信用のない大人だろ」
 達郎は鼻で笑ってキッチンへ向かった。最近あいつ少し生意気になってきてやしないか、と垂火は頬杖をついて考えた。
 もはや見慣れた部屋をぐるりと見回す。壁にはGreen Dayのポスターが貼ってあって、白い手が心臓を模した手榴弾を握っている。
 ふと思いついて、垂火はひょいとベッドの下をのぞいた。 ごちゃごちゃとしたガラクタがところ狭しと詰め込まれている中で、一箇所だけ埃のついていない箱があることに気づく。
「ビンゴ。定番だな〜」
 意気揚々と、まったく躊躇なくアディダスのマークが付いた箱を開けた。 だがそこにあったのは垂火の予想していたもの――いわゆる“エロ本”と呼ばれる類や、テストの赤点など――ではなかった。 クリップでまとめられた紙束のうちのひとつを、垂火はそっと手に取った。




「なあ、ドーナッツもあるけど食べ……」
 そういいながら達郎は部屋をのぞき、絶句した。 絶対に見られたくないものが、絶対に見られたくない男の手にあった。
「コレ、お前が書いたの」
 垂火がそう尋ねると、達郎はアイスコーヒーが乗った盆を勉強机の上に乱暴に置き、四百字詰め原稿用紙をもぎ取った。
「ああもうマジでっ! マジでマジでマジで、あんた信用ねえよ!!」
「まあまあ。ところでコレ、お前が書いたの?」
「あーもう……今なら死ねる、」
 羞恥心にもだえる達郎の胸倉をつかみ、垂火は三度目の質問を繰り返す。
「お前が書いたんだよな?」
「〜ッ……そうだよ!」
 達郎は憤慨しながらもそう叫んだ。
 勝手に人の部屋を漁っておいて、この男は何でこんなに偉そうなんだ? 世の中まちがってる。
「書くのは趣味で? それとも、どこかに投稿するつもりで?」
「まさか。ただの趣味だよ。……つーか、もういいじゃん。忘れて、一生のお願いだから、」
「まあまあ。ちょっと落ち着けよ」
 このままだと原稿をゴミ箱に突っ込む勢いだったので、垂火は観音菩薩のような顔でつとめて優しくこういった。
「見せてみなさい、先生が読んであげるから」
「いやだ」
「即答!」
 思わずちょっと笑ってから垂火は達朗の頭をペシっと叩く。
「恥ずかしいってか? 安心しろ、ほとんど期待してねーから」
「……」
「それとも今まで誰かに見てもらったことあんの?」
「ないけど、」
「だろ? こう見えても俺、大学で六年近く文学について地道に勉強してるんだよ。いいアドバイスできると思うけどなあ」
 達郎は猛烈に迷ってるようだったが、やがてちいさく頷くと手にしていた原稿用紙の束を差し出した。 垂火は内心でほくそ笑む。ちょろいものである。
「中編? 何枚ある?」
「八十枚ちょっとくらい」
「じゃあ、そっちの箱にあるのはまた別の話か?」
「こっちは短編。苦手だから練習しようと思って、最近書いたやつ」
「なるほど。それなりに書き込んではいるわけね」
 クリアファイルに原稿用紙をはさんで鞄に入れた。すっかり氷の解けたアイスティーを飲みながら、 小説ねえ、と垂火は考える。
「敬語すらまともに使えてねーのに小説ねえ」
「心の声が出てんぞ、オイ」
 仏頂面でそういいながらも達朗はちらちらと垂火の鞄を見ている。 きっと原稿を取り返したい気持ちに駆られているんだろうと垂火は思ったが、気づかない振りでドーナッツを要求した。



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 原稿の存在に再び垂火が気づいたのは、夜もだいぶ更けたころだった。 取り掛かっている論文に夢中になっており、すっかり昼間のやりとりを忘れてしまっていたのだ。
 提出期限は年明けだが、修正する時間を入れれば今週中にでも外国語文献を訳しておかなければならない。 専攻がドイツ文学なのでドイツ語は良いとして、問題はフランス語だ。 ショーペンハウアーの文献をあさっているうちに、数珠つながりに同時代のフランス哲学にまで足が伸びた。 悪い癖で、調べ始めるといつも興味の視点が次々に増えて時間を食う。 今更だがつくづく物を書くのに向いていない性質だと思う。
 息抜きもかねて鞄からファイルを出すと、コーヒーを淹れて、そこにウイスキーを数滴垂らした。 酒には強い方で(時子に比べたら標準だが。あれはザルというよりワクだ、と垂火は常々思っている)、 昔から少しアルコールが入った方が筆が進む性質だ。
 慎重に口をつけながらソファに座り、腹のうえに原稿を乗せた。


 それは、ひとりの平凡な男の話だった。
 平凡な少年期を過ごし、は平凡な青年期を向かえ、やがて平凡な妻を娶る。 しかし新婚まもなくして、平凡だったはずの夫婦はそうでなくなった。妻が難病にかかったからだ。
 夫である男は必死に治療費を稼ぎ、その甲斐あってか妻はその後三十年もの時間を寝たきりで過ごしたのち、 ある凍てつくような冬の日の朝ひっそりと心臓を止めた。
 男は冷たくなった彼女の遺体を、家の近くの湖に沈める。彼らには子どももおらず、二人とも戦災孤児だった。 三十年間仕事と看病を往復していた男にも、三十年間ベッドとトイレを往復していた妻にも、友人はほとんどいなかった。
 森の外れのちいさな家で起こったちいさな死は、誰にも気づかれることはなかった。夫である男を除いては。
 妻が亡くなってから男は仕事をやめ、世間から隔絶した生活を始める。
 彼には分からなくなってしまったのだ。自分の人生に一体、何の意義があったのか。 三十年。短い時間ではない。 こうして妻が居なくなってしまった今初めて、彼は自分の半生を見詰めなおし、その意味を問うことになった。 もはや昔と同じ匿名の人間には戻れなかったからだ。
 結末はこうだ。
 無聊の年月が過ぎ、年老いた彼は十何年かぶりに妻の眠る湖を訪れる。 そしてエメラルドグリーンの水面を見詰めながら、死のうと考えた。 探し続けた答えは見つかりそうになく、霧立ち昇る早朝の湖は澄みきって美しい。潮時だと考えたのだ。
 彼は足に石をくくりつけて湖に飛び込む。意識も遠のいてきたとき、遥か水底でひとりの女性が柔らかな笑みを浮かべて佇んでいるのを見た。 妻だった。手を振る彼女の元へと沈みながら、男はようやく自分の人生の意義が何だったのか気づく。
 即ち、彼女の存在意義を守ったこと。自らの信じた愛情を貫いたこと。
 数年後、ひとりの村人がかつて或る夫婦が住んでいた家の近くの湖で、二つの遺体を発見する。 彼らはしっかりと互いの手を握りあっていたという。


 読み終わった原稿をテーブルに置くと、垂火はより深くソファに身を沈めながら煙草に火を点けた。 テーブルに置いたままのコーヒーはすっかりぬるくなっている。
 煙草一本分の時間を思考に当ててから、垂火は携帯電話を手に取った。



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「どう思う」
 市川圭輔が読み終わった原稿をテーブルに置くと、垂火は煙草で原稿を指してそう尋ねた。
「誰が書いたんだ?」
 市川はビール缶を手にとって、質問に質問で返した。
「教え子の高校生」
「へえ、そりゃ…」
「なあ、どう思う?」
 垂火が二度目の問いを口にすると、市川はビールを一口飲んだ。
「それって編集者としての意見ってことか?」
「じゃなきゃお前に聞かないだろ?」
「プロットは練れてねーし、語彙は貧困。 なんで妻の死体を葬儀に出さず湖に沈めたのか、その心理描写もイマイチだし。 けど……面白い。吸引力っての? 引き込まれる。 特に、奥さんが死んで初めて迎えたクリスマスの場面。あそこは良かった」
「暖炉の前で、出会った頃を回想するシーン?」
「そう。けど、一般受けはしないんじゃないかなあ」
「どういうことだ?」
 頬杖をついたまま垂火が尋ねると、市川はぐるりと目を回して見せた。
「だって十七歳が書いた割りには老成しすぎてるだろ? 大衆が求めてる十七歳の小説ってのはさ、もっと等身大の、青春の甘酸っぱさが感じられるようなピチピチしたヤツだよ。 売れる本が良質な本っていうご時世じゃないしね」
「そんなことはどうでもいいんだよ」
 苛ついたように垂火は舌を鳴らした。
「こいつには才能がある。俺がいうんだから間違いない」
「たしかにお前の目は認めるけど。荒川や矢島のことも、在学時代から高くかってたもんな。 いまや二人とも新進気鋭の作家だし」
 市川は今までよりも幾分、真面目な表情で再び原稿を手に取った。
「文章の選び方にセンスがあるよな。詩的っていうか」
「こいつはまだ掘り出したばかりの原石だよ。泥を払ってやりゃ、化けると思わないか?」
 市川は首をすくめたが、垂火は頬杖をついたまま真剣な面持ちを崩さなかった。
「そんなにそいつが気になんの?」
「みすみす殺すのは惜しいってくらいにはね。 俺みたいに才能のない奴には羨ましく思えるんだよ」
「育ててやれば?」
 と市川が何気ない様子でいった。
「誰が? 俺が?」
「軽く泥を払ってやれよ」
 垂火はしばらく口を噤んでその提案を吟味した。
 出来ることは僅かだろう。だが、最低限の教養と知識を身につけさせることくらいなら俺にも可能かもしれない。 それにしても時子といい、こいつといい、なんで俺の周りにはこうも才能に恵まれた人間が多いんだか。 彼らの目で見る世界はおそらく、俺には一生理解できないに違いない。
 たとえば……同じ才能をもつ者同士ならば、世界をも共有できるのだろうか? 達朗が時子に惚れていることは明白だ。 もし達朗が――…と考えたところでしかし、市川が意味深な視線を向けていることに気づいて垂火は思考を打ち切った。
「呼び出して悪かったな、もういいよ。新妻がベッド暖めて待ってるだろ」
「あいつなら今頃、他の男のベッドでスクワットでもしてるよ」
「仮面夫婦って怖いな」
 唇を重ねながら、例えばこんな風に、と垂火は考えた。
 例えばこんな風に時子と身体を重ねることはできない。時子は魅力的な人間だ。 才能に満ち溢れ、孤独の恐怖を知りながら屈しない強さを持っている。 芸術は遠い世界だが、時子を通じて垣間見えるそれは美しい。
 けれど、セクシャルな意味で時子を愛すことはできない。 それは即ち、彼女の女としての性を否定していることに等しいのだ。

 もし達朗が時子の心を得ることに成功したら、そのときこそ彼女を突き放してやれるのだろうか。 今の自分たちは互いがそれぞれに加害者で、被害者だ。依存することに慣れてしまったし、臆病になってしまった。 昔は違ったが、もう過去を懐かしむのはやめなければ。







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