19 - [ 2004年12月 I ]

 師走の語源のひとつに、師匠の僧が走り回るほど忙しい月だから、というものがある。 その真偽は定かではないものの、確かに一年の締めくくりである十二月は人々の気をそぞろにさせる。 とはいえ、西洋文化を多分に取り入れた近代の日本においては、十二月と聞いて連想される言葉は師走よりもクリスマスの方かもしれない。

「なんか、ちょっと緊張するな。達郎は知ってる人いるからいいけどさ」
「俺だって数人くらいだよ」
 聖誕祭の晩、達朗は三浦純平を伴って喫茶店ユーフォリアへと向かっていた。 小夜からクリスマス・パーティーの招待を受けたためだ。 なんでも毎年恒例で、知り合いのみの小さなパーティーらしい。 元来、人付き合いの苦手な達郎としては少々気後れする気持ちもあったのだが、 友人を誘ってもいいということだったので、三浦と共に訪れたのだった。
 喫茶店ユーフォリアにはいつもと違って窓にはカーテンが下りており、表には『貸切』の札がかかっていた。 パーティーはもう始まっているらしく、近づくにつれ賑やかな雰囲気を感じ取る。
「……ところで、“ソレ”は誰にあげるつもりなんだ?」
「噂の美人店長さんに決まってんだろ。せっかくお招きいただいたことだし」
 三浦の手には、赤い薔薇が一本握られていた。 ご丁寧に、クリスマスカラーの三色リボンがかわいらしく結ばれている。 三浦の下心とは裏腹に、クリスマスにはふさわしい。
 カウベルを鳴らして二人が店内に足を踏み入れると、すぐに小夜がこちらに気がついた。 いつもの白シャツと黒のパンツではなく、今日はシックなワインレッドのドレスを着ている。 肩にさりげなく羽織ったシフォンのストールが大人の色気を醸し出していて、達朗は背後の三浦が色めきたったのを肌で感じた。
「いらっしゃい。今夜は来てくれてありがとう。そちらは……」
「あ、クラスメイトの、」
「三浦純平と申します! 本日はお招き、ありがとうございます」
「あらあら、ご丁寧にどうも」
 ドレスと同じ色合いをした、ルージュの唇がほころぶ。 有頂天の三浦を見ながら、古典の矢島はどこにいったんだか、と達朗は内心で呆れ返る。
「テーブルにジュースや食べ物があるから自由に摘まんでね。 ただし、カウンターに置いてあるドリンクには手をだしちゃダメよ? 二人にはまだ早い、魔法の飲み物ですからね」
 茶目っ気たっぷりに小夜はいってから、するりと達朗の耳元に唇を寄せて囁いた。
「時ちゃん、来てるわよ」
 ハっとして達朗が小夜を見る前に、 彼女は寄ってきたときと同じようにすっと離れ、「楽しんでね」と言い残して新しく入ってきたお客の相手に向かった。


「大人の女性って感じだなぁ……。くっそ、おまえ羨ましい! 俺も雇ってくんないかなー」
 興奮する三浦に生返事を返しながら、すでに達朗の目は時子を探していた。
 店内には思ったよりも客は多く、中には子どももいた。 大人たちは皆顔見知りらしく賑やかに談笑しており、子どもたちは子どもたちで、大人の足の間を駆け回って遊んでいる。
 その人の波の隙間に、エメラルドグリーン色のスカートがちらりと目に入った。
 薄い背中と、フルートグラスをもつ華奢な手。
「達朗? オイ、ひとりにするなよー」
 慌てる三浦に肩越しに謝ってから、達朗は人を掻き分けて店内の奥に向かった。 一瞬だったが、彼は確信していた。なぜ分かるのか自分でも不思議なほどに。
 時子は、グラスを片手にソファの肘掛けに浅く腰掛けていた。 深みのあるエメラルドグリーンのシフォンワンピースが白い肌を更に引き立てていて、 胸元を飾る糸のように細いシルバーネックレスは、鎖骨のくぼみに緩やかに沿って輝いている。
「あ、達郎。遅かったじゃない」
 時子がこちらに気づいて片手をあげたので、達郎は慌てて緩みかけていた口元を片手で隠す。 不覚にも、見惚れてしまっていたのだ。しかし時子の横に立つ人物を見た瞬間、ふわふわと浮遊していた心はその場で停止した。
「よう、遅かったな」
 陽気にグラスを掲げた垂火は、ツイード生地のジャケットに濃紺のベストとシャツ、 足元はマーチンのショートブーツという出で立ちだった。カジュアルだが、フォーマルのツボはきっちり抑えた格好だ。 同性の目から見ても趣味がよかった。少なくとも、達郎がささくれのような些細な劣等感を覚えるくらいには。
 しかしそんなものも、時子の台詞で一気に吹き飛ぶ。
「一瞬、達郎だって分からなかったよ。すごく大人っぽく見えたから」
「……時子さんも、それ、すげえ似合ってる」
 その言葉に時子はまるで、タップダンスを踊るチーターを見るような目をしたが、すぐにくすぐったそうに礼をいう。
「おい、俺は? 家庭教師の俺に挨拶は?」
「あー…どもっス」
「28点。ハイもういっかーい」
「もう酔ってんのかアンタ」
「垂火はねー、早々に酔ってそのまま停滞するタイプなのよ。酔いつぶれることはないから、ある意味強いのかもしれないけど」
「つまりずっとこのテンションってこと? うわ、めんどくさ…」
 達朗が顔をしかめると、垂火はその肩に馴れ馴れしく肘をおいてワントーン高い声を出した。
「ちょっとこの格好はテンプレなんじゃないの〜? 黒に逃げちゃオシマイだから。 大体、最近の若い子は雑誌さえ見てりゃいいと思ってるからみんな同じカッコしてんのよぅ」
「ピーコか? ピーコのファッションチェック気取ってんのか!? うっぜえ!!」
「ごめんね、ちょっと相手してやってくれる? 水もらってくるから」
「えっ、ちょ、待って」
 達郎の縋りつく声も空しく、すでに時子は背中を向けていた。



「しかも絡み酒だからなー……まあ、達郎だったら大丈夫だと思うけど」
 溜息混じりに呟いて、時子は談笑する人々の間をすり抜ける。 カウンターで水差しからグラスに水を注いでる途中、なにか柔らかい物体が太もものあたりに勢いよくぶつかった。 目線を下げると六、七歳ほどの少年が尻餅をついている。どうやら元気よく走り回っていたところ、時子に衝突してしまったらしい。
「ごめんね、大丈夫?」
 慌ててしゃがみこむと少年は、気丈にも平気な顔で立ち上がろうとしたが、幼い手に握られたものに目を向けた途端、ふにゃりと顔を歪ませた。 子供が苦手というわけではないが、扱いがよく分からない時子は対処に困ってうろたえてしまう。
 とりあえず、その幼い手に握られた紙を見ると、それはサンタやトナカイが可愛らしく描かれたナプキンだった。
「ああ、破けちゃったのか。新しいの取ってきてあげるね?」
「やだ。これがいいの!」
「うーん、でも同じものだよ?」
「こ・れ・が、いいの!」
 何か彼なりのこだわりがあるのか、少年はキッパリとそう言い切る。 大きな両目から大粒の涙が零れ落ちそうになっているのを見て、時子は困り果てて辺りを見回したが、 壁にかかったクリスマスポスターを見てある考えに閃いた。
「小夜さん! 紙とペン、借りていい?」
 少し離れた場所で談笑している小夜にそう叫んで了承を得てから、 時子は少年の手を引いて普段はレジが置かれている机に向かう。 引き出しにあるノートから紙を数ページ破り、窓際の空いている席に座った。
「それ、ちょっと見せてくれる?」
 少年はまだ泣きべそをかいたまま、それでも何をするのか期待に満ちた様子でナプキンを差し出す。 時子は、ナプキンに書かれているのと同じものを、角度も全て同じに模写した。
「ああ、でも赤が……」
 ナプキンの絵には、サンタの服とトナカイの鼻だけが赤く塗られている。 そして生憎、引き出しから持ち出したペンケースには赤ペンがなかった。
「そうだ、君、あそこのテーブルからケチャップ取ってきてくれる?」
 少年はこくりと頷いて、するすると手馴れた動作で大人たちの足の隙間を縫ってケチャップをとってくる。
「ケチャップなんか、どうするの?」
「こうするの」
 指先に少しケチャップを出して、それをサンタの服とトナカイの鼻に薄く塗る。 息を吹きかけて乾かしてからティッシュをかぶせて余分な水分を取ると、 ちょうどいい具合にナプキンに書かれている絵と同じような、滲んだクレヨンのような色味になった。
「すっごい! そっくり!」
「でしょ。でも、これと同じのは世界に一つもないんだよ。これは君だけのもの。 だって、ケチャップを使った絵なんて見たことないでしょ?」
「ない!」
 少年が満足そうなので、時子はほっとしてつられて笑みをこぼした。 少々、強引な持っていき方かと思ったが、大丈夫みたいだ。
「お姉ちゃんは、なんでそんなにお絵かきが上手なの?」
「お絵かきのお仕事をしてるからよ」
「じゃあ何でもかける?」
「うーん大抵のものならね」
「僕は? 僕、かける?」
 時子は返事に窮したが、少年はなおもしつこく食い下がる。
「君は……ちょっと、難しいかな」
「なんで? お絵かきのおしごと、してるんでしょ?」
 途端に不機嫌そうに唇を尖らせた少年を見て、時子はこめかみを人差し指で掻く。
「君を描くには、ずっとじっとしてなきゃいけないの。 せっかくのパーティーなのにそんなの、つまらないでしょ?」
「できるもん。お兄ちゃんだもん、できるもん!」
 今度の言い方はどうやら逆効果だったらしい。 やっぱり子どもって難しいなぁ、と思いながら時子は仕方なく鉛筆を手に取った。 きっと途中で飽きるに違いないと思ったのだ。
「じゃあモデルさん、こちらの椅子に座ってくれますか?」
 そう恭しくいえば、少年は得意気にふんふんと鼻を鳴らして、ちょこんと座る。
「一番、楽な姿勢でリラックスして――うん、それでこっちを見てくれる?」
 少年は頬を紅潮させて、すっかりモデル気分である。その愛らしさに思わず唇を緩め、時子は柔らかく丸みを帯びた輪郭に線を入れた。 人物をまともに描くのはいつ以来だろう、と考えながら。
 少年はきょろきょろと目線は動かしながらも、最初に宣言したとおりにじっと我慢強く姿勢を崩さない。 が、それも十分ほどの間で、やがて疲れたのかそのままの姿勢で首を傾けて寝息を立てだした。
 それでも時子は手を止めなかった。止めたくなかった。 一心不乱に、健やかに眠る子どもを写生する。ずっと避けてきた行為だというのに、今はなぜか何の抵抗もなかった。 眠る子どもの姿があまりにもいとけなく、無垢の結晶のように見えたからかもしれない。


 粗方出来上がって時子が一息つくと、背後から、お上手ですね、と声がかけられた。
「あ、ごめんなさい。あんまり熱中してらっしゃったから、声をかけないほうがいいかと思って。 うちの子がお世話になっていたみたいで……」
「あ……いえ、」
 ふと夢から覚めたような心地で、若い母親に会釈を返す。 いつの間にか彼女以外にもギャラリーが集まっていて、その中には達郎と垂火の姿もあった。 途端に時子は気恥ずかしい気持ちに襲われて、出来上がった絵を母親に「よかったらどうぞ」と手渡すと、挨拶もそこそこに人の輪から抜け出した。
 すっかり忘れていた当初の目的である水を取りにカウンターに向かうと、 すぐに垂火と達郎が笑みを浮かべて隣に立った。ただし同じ笑顔でも擬音としては、達郎はニコニコで、垂火はニヤニヤだったが。
「時子が子ども好きだったとはなー。知らなかったよなあ? 達郎」
「俺、そういうギャップ好きだなあ」
「子どもに優しい女性って素敵っスよねー」
「なによ、あんたたち……そして君、だれ?」
 いつの間にか居る三浦純平に時子は渋面を向ける。
「あ、ボクは草薙くんの親友の、」
「“友達の”三浦です」
「さりげなくランク下げられた!」
 なにやらどっと疲れた気分で、時子は白ワインのグラスを取り唇に運ぼうとしたが、その前に垂火がグラスを合わせた。 それを見て達郎と三浦もジュースの入ったグラスを時子のワイングラスに軽くぶつける。 そして、それぞれ聖夜の挨拶を口にする。
 時子はふっと微笑をもらして、同じ言葉を返した。
「…メリークリスマス」
 聖なる夜はもうしばらく、特別な光の飛沫を散らし続けることだろう。







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