22 - [ 2005年1月 II ]

 週末の昼時だというのに、そのコーヒーショップは閑散としていた。
 市川圭輔は原稿用紙をめくる手を止めると、テーブルに置いたままの携帯電話をちらりと見た。 午後一時五分。どうやら垂火の教え子は教師に似ず、時間に正確なタチではないらしい。 とはいえ市川も時間にうるさい方ではなかったので、通りかかったウェイトレスを捕まえてのんびりと二杯目のコーヒーを注文した。
「コーヒーのみでよろしいですか?」
「あ、それと今日の日替わりケーキって何?」
 ウェイトレスが説明を始めようとする前に、あの、と第三者に声をかけられて市川はメニューから目線を上げた。 高校生くらいに見える少年が、携帯電話を片手に立っていた。
「市川さん、ですか」
「そうだよ。君は草薙達朗くん」
「はい。遅れてすみませんでした」
 頭を下げた達朗に向かいの席をすすめて、市川はメニューを彼にも見えるように中央に置いた。
「なにか頼む?」
「じゃあ、アイスティーを」
「紅茶はやめといたほうがいいよ。ここ、劇的に不味いから」
 それを聞いてウェイトレスはひくりと眉を揺らしたが、市川は気にせずにコーヒーをすすめた。
「まあ、コーヒーもインスタントみたいなもんだけどね」
「はあ……」
 結局、達朗はカプチーノを頼み、市川は日替わりケーキ(ちなみにレアチーズケーキだった)を頼んだ。 ウェイトレスは最初よりもワントーン低い声で、少々お待ちください、というと足早に去っていく。
「さて」
 と、市川はテーブルの上に両手を組んで、目の前の少年を見た。 警戒心の強そうな子だ、とそれが第一印象だったが、同時に骨がありそうな子だとも思った。 遅刻は減点だが、遅れたことの言い訳をしないところはいい。
 とはいえ、実はそんなことはどうでもよかった。問題は顔だ。こうやって見ると、いかにも垂火が好みそうな顔立ちのように思える。 だがまさか、高校生に手を出すとは。
 垂火から、会ってほしい奴がいるといわれたのは、先週のことだった。


「前に話しただろ、家庭教師の教え子」
 錆びついた記憶中枢を探ってから、ああ、と市川は頷いた。
「ああ、小説を書いてる高校生?」
「そう。ちょっとコレ見て、アドバイスしてやってくれないか?」
 そういって垂火は原稿用紙の入ったファイルを差し出した。
「いいけどさー。俺、面白くなかったらハッキリいうよ。若い才能、潰しちゃうかもよ」
 正直、気乗りせずに市川がそういうと、垂火は口元を緩めた。
「そのくらいで潰れる奴じゃないよ。俺が育ててるんだから」
「それもそうだ。なんて気の毒な子……」
「じゃ、よろしく頼む」
「恭平は? 来ねえの?」
「小学生じゃあるまいし、付き添いはいらないだろ」
「俺はいいけど、向こうはどうかなあ」
「ちなみにさ、ソレ結構な出来だぞ」
 いつになく上機嫌で垂火は原稿用紙を指差した。 垂火が手放しで人を褒めるのは珍しい。少々微妙な気分になった市川は、ぼやくように呟いた。
「随分と目をかけてらっしゃることで」
「不思議と段々かわいく思えてきちゃって。 見た目は猟犬っぽいのに中身はマルチーズみたい奴でさ。莫迦な子ほどなんたらっていうか」
「……え、お前マジなの」
「は? 最初からそういってんだろ」
 市川はかなり微妙な気分でこめかみを指で押さえた。
「いいさ……。お前のそういうサドっぽいところ、嫌いじゃないぜ」
「俺はお前の、そういう唐突に自分の世界に入るところ、嫌いだけど」
 垂火は面倒くさそうな顔でそうこたえた。



 そうしてやってきた少年は、こちらの気も知りもせずにカプチーノの泡をスプーンで掬っている。 その目線がさっきから自分の斜め下に注がれているのに気づき、市川は脇に置いていた原稿用紙を手元に引き寄せた。
 垂火の思惑はなんであれ、自分は自分のすることをしよう。私情には流されない方だという自覚はある。
「今度ね、」
 市川がそう切り出すと、達郎はカップを置いて顔を上げた。
「うちの出版社で短篇小説の公募があるんだよ。受けてみる気ない?」
「えっ……この話で、ですか」
「そう。いい線いってると思うよ。ていうか、実はもうひとつ読んだことあるんだけどね。 タイトルなんだったかな……えーと、夫婦が主役の。奥さんが病死するやつ」
 かなり大雑把な説明だったが、達朗はそれで理解したらしく、少し眉根を寄せて照れくさそうな表情で頷いた。
「前に垂火…先生にもってかれたやつですね」
 “垂火”と“先生”という単語の間に、妙な間があったのに目敏く気づいた市川は、なるほどね、と内心で頷いていた。 普段は呼び捨てというわけだ。
「……まあ、無理にとはいわないけどね。正直レベル高いし。 過去の受賞者の名前聞いたら、驚くよ。君はまだ若いし、来年は受験だろ? 大学に進学してからでも遅くはないかもね」
 と、自分から薦めたにも関わらず、完璧に私情に流されて市川はつらつらと御託を並べる。 達朗は思案気な顔をしたままだ。
「少し、考えてみます」
「いいよ。締め切りとか、詳しいことは恭平に資料を渡しておくから」
「お願いします」
「それと、あいつから何かアドバイスしてくれって頼まれたんだけど、 もしこれで受けるなら俺が口を出すと色々アレだから、今回は悪くないとだけいっとくね」
「それで充分です」
「ところで、これって恭平に添削してもらった?」
「いえ、まだざっと読んでもらっただけですけど」
「へえ」
 それでこの完成度か。
 少しやる気になって市川は原稿用紙をめくった。
「いくつかちょっと言い回しがくどいところがあるんだよな。こことか……あと、ここ。 送り仮名が統一されてないとことか表現の重複もいくつかあったから、そういうイージーミスは第三者に直してもらった方がいい。 推敲しても書いてる本人だと気づかない場合も多いし」
 そういってから、市川は原稿をファイルに入れて達朗に返した。 達朗は丁寧に礼をいってから、鞄に仕舞う。
「ところで、どう? 恭平とは」
「え? いや、まあスパルタですね」
「だよねー。あいつ、あっちの方もスパルタなんじゃない?」
「? はあ……」
 意味不明という顔をした達朗を見て、ノリが悪い子だ、と市川は思う。
「今日なんで恭平は来れなかったんだろうね」
「あ、なんか大事な用事があるとかいってたような……」
「ふうん、またあの子のところかな」
「あの子?」
「あれ、知ってるんでしょ? 一ノ瀬さん。 美人だけど、ちょっと居ないタイプの女の子だよな。 君、不思議に思わない? アイツらってよく分からない関係だろ」
 市川は達朗の顔色をうかがう。 いたいけな高校生をからかうのは良い趣味とも思えないが、これくらいの意地悪は許されるだろう。
「妬けちゃう?」
「えっ」
 思いがけない言葉に達朗はうろたえた。なんでこの男が自分の気持ちを知っているのだろう? もしかして垂火が話したのだろうか? そうだとしたらあの家庭教師、 ただじゃおかない。
 黙りこんだ達朗を盗み見ながら市川は、照れちゃって若いなと見当違いなことを考えていた。 そして、俺も昔はこんな感じだったんだろうか、と唐突に過去へと想いを馳せた。



 垂火と知り合ったのは学生時代、大学に入学して半年ほど経った頃のことだ。 とはいえ出会った場所は大学のキャンパスではなく、新宿二丁目に位置するとあるバーだったのだが。
 世間体というものが最も力を持つこの国では、同性愛者は自由に恋愛をする権利が異性愛者の半分もない、と市川は考えている。 夜中にゲイバーまで移動しなければ出会いすら禄に得ることができないのだ。
 特に親がそれなりに有名な出版社の社長である市川にとって、周囲にゲイと知られるのはあまり好ましい事態じゃなかった。 自分はいいが、両親は卒倒するだろう。ただですら、一人息子が悪い病気にかかったと思っているのだ。 お世辞にもリベラルとは呼べない彼らは、先天的に男しか性的対象に見れないということを決して認めようとはしなかった。
 そういった境遇は垂火とも似ていて、だからかやがて付き合うようになった。 けれど、いつしか気づいたのだ。垂火の心には、今も一人の人間が深く根を張っている。 それが死人だと気づいたのはそれからまた少し後のことで、どうやっても心を手に入れることはできないと悟った市川はやがて諦めた。 そして親の促すままに大学を卒業後見合いをして、結婚した。 今も垂火との関係はずるずると続いているが、それでもメンタル的にはお互い友人に限りなく近い。
 ふと、市川は目の前の少年が昔の自分に被って見えた。 垂火がなにを考えているかは分からないが、あの男が今も未練がましく死者の魂に取り憑かれていることは明白だ。 となればこの少年もまた、自分と同じ轍を踏むだけじゃないのか。


「あのさー……俺がいうことじゃないかもしれないけど、老婆心と思って聞いてくれる?」
 レアチーズケーキをフォークの先で突つきながら、市川はそう切り出した。
「恭平は難しいよ。正直、君みたいな子どもが手におえる奴じゃないと思う。 あいつってパっと見た感じ、すごく器用そうじゃん? けど実際は見た目ほどじゃないんだよ。 めちゃくちゃ気分屋だし、来るもの拒まず去るもの追わずだし。 面倒見はいいくせに踏み入られるのは極端に嫌がるし。要は、非常に厄介な男なんだよ。 それに……死んだ人間にはどうしたって勝てないんだから」
 そこまでいってから市川は、ありもしない母性的な笑みを浮かべた。
「そんなわけで、俺とかどうよ? 軽く遊ぶならもってこいだよ〜泣かせたりとかしないし。たぶん」
「あの……」
 達朗は、戸惑いながらも本能的に身の危険を感じて少し身を引いた。
「いってることの三分の一も理解できないんですけど」
「いやだからさー恭平と付き合うのはやめたほうがいいってばー」
「付き合うって……誰と誰が」
「そりゃ君と恭平でしょ、もちろん」
「はあ!?」
「うわっ」
 勢いよく立ち上がった達朗に、今度は市川が身を引いた。
「ちょ、びっくりさせるなよ。おじさんってのはみんな心臓が弱いんだから」
「あんた今、なんていった?」
「『おじさんってのはみんな心臓が……』」
「その前だよ!」
「『君と恭平だろ、もちろん』」
「ありえねえ……マジで! ありえねえ!! どこからその発想、沸いて出たんだよ!? ああ!?」
「お、怒るとチンピラ風になるんだー新鮮だなー」
 鬼気迫る達朗に、市川は両手の平を前に出して、待ての体勢をとった。 そして今更ながら、どうも話がかみ合ってないことに気づき始めた。 達朗もまた、店中の衆目が集まっていることに気づき、少し頭を冷やして腰を下ろす。 だが衝撃と怒りはまだ治まりきれていない。あまりに突飛すぎる展開、まさに青天の霹靂だった。
「俺と垂火とか……うわ、考えただけでも吐き気がしてきた。ありえねえ……。 たとえ性転換したとしても確実にない」
「いやだってさ、てっきり君もゲイかと……」
「だからなんで俺が、」
 怒りを通り越して呆れていた達朗は、ふと額を押さえていた手をゆっくり離すと、驚愕の表情で市川を見据えた。
「“君も”って、なに」
「あ」
 ヤバイ。
 市川は焦って何とか誤魔化そうとしたが、口を手で覆った時点で肯定したも同然だった。
「垂火も? 垂火がそうだから、あんた誤解して……?」
「いや、ええと」
「垂火って、ホモなんですか」
「うーん、どうだろう……」
「あんたもそうなんだろ。さっき妙なこといってたよな、軽く遊ぶならなんとかって」
「……年かな、最近、物忘れがひどくて」
 とぼける市川の左手の薬指をちらりと見て、達郎は凄みのある声を出した。
「教えてくれなきゃ、奥さんにばらすぜ。旦那がホモだってさ」
「どうぞお好きに。それとホモじゃなくてゲイっていえ。 ホモは差別用語だぞ、名誉毀損で訴えてやるからな」
「じゃあ、あんたが働いてる出版社にばらす」
「ちょっと待った! ……君さ、分かってる? 公募に出すんなら俺の機嫌をあんまり損ねない方がいいと思うぞ。 何を隠そう、俺はあそこの御曹司なんだ」
「恥ずかしくねえの、そんなの親の肩書きだろ」
「利用できるものは何でも利用する。それが社会人ってもんさ」
「別に良いよ。他の出版社が主催してる公募に出すし、どっちにしろ俺は絶対に作家になるから関係ない」
「おバカ、成ろうと思ってそうそう成れる職業じゃねーの」
「それとも職場だけじゃなくて、その親にも、」
「分かった! 分かったから、ちょっと黙れ。お前、目が怖いよ。マジだよ」
 あーあ、と市川は溜息を吐いてから、セブンスターを取り出して火を着けた。 三日間の禁煙が水の泡だ。しかし今は煙草でもなければ、この瞳孔が開きかけた少年の相手はできそうにない。
 達朗は囚人を監視する番犬のような目で市川を睨みつけている。 市川は覚悟を決めた。もう言い逃れもできそうにないし、垂火には悪いが面倒くさくなってきたからだ。 それともう一つの要因として、親の肩書きと言い切ったこの無鉄砲で礼儀の欠片もない子どもに、正直、爪の先程度だが好意を持ったからでもあった。
「俺が言ったって恭平にはいうなよ」
「それは分からない」
「そこは建前でいいから頷いとけよ……」
「分かった」
「調子のいいことで。そういうところは恭平とそっくりだわ」
「あいつ、男が好きなのか」
「そうだよ。そんなに気持ち悪いか?」
 市川が煙を吐き出しながら訊ねると、達郎はそこで初めて目を逸らした。
「……本音をいうと、少し気持ち悪い。そういう奴、身近に居なかったし」
「たぶん居たけど気づかなかっただけじゃないの。まあ、そういうこと。 けどな少年、性癖と人間性になんら因果関係はないんだよ。俺がいっても説得力ないけど」
「たしかに」
「オイ」
「垂火が……じゃあ、時子さんは――」
「ん? なんだって?」
 市川はそう聞き返したが、達朗は真剣な面持ちのまま何かを考え込むように口を閉ざした。 やがて市川を見ると、さっきと同じように睨みつけた。
「垂火の家、知ってるよな」
「オーイ、また瞳孔が開きかかってるよー……」
「教えてくれなきゃ、仕事先と両親と奥さんと奥さんの実家にバラす」
「さっきよりめっちゃ増えてんじゃねーか! …ったくさぁ、分かったからもう勘弁してよ。か弱いオヤジをいじめて何が楽しいんだよ」
「いじめ、かっこ悪い」
「もう黙ってくれる」
 原稿用紙の裏に住所を走り書きして渡すと、達朗は短く礼をいってコーヒーショップから飛び出していった。 市川は二本目の煙草に手を伸ばしながら、あーあ、とさっきよりも深い溜息を吐いた。
「恭平に殺されるかも……」







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