くそったれ、という言葉をジノは血と一緒に吐き出した。
斬っても斬ってもキリがない。肩の傷は甲冑の隙間から斬られたおかげで急所は外れていたが、それなりに深い。
まったく、隙を逃さない嫌味な野郎だ、とジノは思う。
恐れるのは、奴らが形振りかまわなくなってテントを破って入ってくることだ。
シャーネの場所を王家側に悟られてはまずいはずだから派手な動きはしないと思うが――今のところは、まだ。
そのシャーネはまだ腕の中で気を失っている。片手がふさがった状態でこの人数と戦うのはかなり困難だが、
ここがテントということを考えれば不用意に隅に寝かせることもできない。外には兵が集まっているだろう。
布ごしに刺されるかもしれない。
結局ジノは、
左手にもった盾でシャーネをかばいながら、右手の剣を振るった。近寄る者を容赦なく、最短の方法で確実にしとめられるように。
シャーネを抱えている以上、こちらからは動けない。
相手が切りかかってきたところを一閃でしとめるしかない。
シャーネに向かう刃は全て剣で、間に合わなければ自らの身体で止めた。
――これは報いなんだろうな。
腕のなかのたしかな体温を感じながら、ジノはそう考えた。
ひどく傷つけることは分かっていた。けれど、それ以上に望んでいた。
彼女を騙したまま、どこか田舎でひっそりと暮らす。ちいさな家にちいさな畑を耕し、そう、村の子どもに剣を教えてやるのもいい。
シャーネは学があるから先生なんてどうだろう。そのうち子どもが生まれて、年を取って、孫たちに囲まれて死ぬ。
だが同時に、分かっていた。
たとえ裏切りを隠し通せたとしても、彼女がそんな穏やかな暮らしに甘んじる女じゃないということ。
その命ある限り、死んだ人間たちの誇りを守るため戦い続けるだろうということ。
そして自分は一生、罪悪感に苛まれ続けるだろうということを。
俺は狂っている。それでも今おまえが俺の手のなかに居ることの方が堪らなく嬉しいんだ。
今、償うから。決して傷ひとつ、付けさせないから。
******
「――さすがにこの状態で減らず口を叩く気力はないか」
身体の至るところから血を流し、酸素を貪るジノを見下ろして、リースは平坦な声を漏らした。
その手に握られている剣はまっすぐ、ジノの喉元に突きつけられている。その腕の中にはいまだ抜け殻のようになったシャーネがいた。
その場に生きている人間は、その三名だけだった。乾きかけた血の匂いがテントの中に充満している。
「しかし、そう簡単に死にもしないようだな。貧民はしぶとい」
「貧乏人を、なめんなよ」
掠れた声でそう返しながら、ジノは周囲の物音に極限まで耳を傾けていた。さすがに全員を切り倒すことはできなかった。
何人かは、手傷を負わせたとはいえテントから出してしまった。すぐに新しい手勢がやってくるだろう。一分か、二分か……。
焦りに心臓を凍らせながら、ひときわ酷い咳をする。口から血がごぽりと零れだして、シャーネの頬に垂れた。
シャーネの白い肌は今や赤い染みで斑模様に汚れていた。
その全ては彼女自身のものではなく、ジノと床に倒れている者たちのものだ。
――身体が暖かい……。
漆黒の闇のなかで、シャーネはぼんやりと考えていた。
今、何が起こっているのだろう。わたしは誰だっただろう? 何かしなければいけないことがあったはずだ。しっかりしなくては……
ああ、そうだ。わたしは王なのだ。今、わたしが死んでしまったらこの戦いは、
――この戦い?
ふいに誰かが囁いた。揶揄を込めた笑いを交えて。
――この戦い? 叔父がシナリオを書き、幼馴染がその幕を開けたこの戦いが何だというのだ。判っているはずだろう?
この戦いに勝利したとしても、進む道には不幸しかないことを。ジノは裏切り者だった。罰せられなければならない。勿論、極刑だ。
――……殺す必要はない。誰も知らないんだ。リースとわたししか知らない。何とでも誤魔化せる。殺さなくても、
――ハッ、誤魔化す? 王みずから不正を働くのか? 民になんと顔向けするつもりだ? 死んだ兵たちには?
――わたしは好きで王になったわけじゃない! 好きでこんな場所に立ったわけじゃない! 好きで、ジノをこんな風に……追い詰めたわけじゃない、
――自分かわいさに被害者ぶることは、おまえが最も軽蔑していたことではなかったか? 定められた道を疎み、戦場までジノを追い、それで
『好きでこんな風に追い詰めたわけじゃない』などよく言える。いつまでも共に歩めると思っていたわけではないだろう。追い詰めたのは紛れもなくおまえだ。
愛していたのなら身を引けばよかったものを。
――好きだったんだ、離れたくなかった。いつか離れることになるからこそ、出来る限り側にいたかった。
軽口を叩き合って、隣で笑っている顔を見ていたかった。
――身勝手な女だ。ここで死んだ方が楽なのではないか? そうすればジノをその手にかける必要はない。ジノも血を流しすぎている。
おそらく、早く処置を施さなければ死ぬ。
――……ジノが死ぬ?
――そうだ、おまえと死ぬ。美談ではないか。死ねばこんな面倒な、しがらみだらけの世界から逃れられる。お前たちは望みどおり共にいられる。
――他の者はどうなる? 今まさにわたしを救わんと戦っている者たちは。
――捨てておけ。好きで王になったわけじゃないのだろう? 彼らが勝手にしていることだ。不憫なものさ、お前は普通の女でいたかったのに。
生まれながらに定められた運命など捨ててしまえ。自らの手で未来を決めたらどうだ。
――未来……? ここで見殺しにすれば、民に未来はない。勝ち目のないかもしれない戦いに付いてきてくれた者たちも。
誰が見ても王の器に足りぬわたしを信頼し、助け、最後まで戦い抜こうとしてくれている者たちの未来が、
――今更、王のような口を。素直になったらどうだ。運命の流れに逆らえ。お前の望む言葉だろう?
――逆らえない流れがあるのではないのか。人として生きるうえで絶対に逆らってはいけない流れが……ここで何もせずに死に逃れれば、
この戦いで死んだ者らはどうなる。使者の少年は、父上はどうなる。……ジノも。
助けられるのはわたししか居ない。なのに逃げろというのか!
急に、視界が弾けた。
色彩が戻り、今までまったく無音だった世界に音が戻る。
馬の蹄と鳴き声。重なり合った人々の叫び。剣が交わる硬質な音。
終わらせなければ。
シャーネはそう覚悟した。