15 - [ 2004年11月 T ]

 達朗が、渡された英米文学のリストを全て消化したことを告げると、次に垂火が渡してきたリストはフランス文学だった。 マルセル・エイメから始まり、モリエールまで遡ったところで近代へと戻る。前回と同じく、リストの並びはそんな風だった。
 数年後、曲がりなりにも物書きとして生計を立てていくようになってから達朗は気づいたのだが、垂火の作成したリストは実に周到だった。 それぞれの作品の間には必ず何らかの因果関係があり、それは時代背景だったり、思想だったり、影響の相互作用だったりした。
 九割が小説だったが、中には詩もあった。とりわけボルヘスには多大な影響を受けることになる。 時折、垂火はそのとき達朗が読んでいる作品についていくつかのことを言及し、 達朗の答えに補足や、必要があれば新しい解釈を加えりした。
 そんな風にして達郎は除々に世界各国の文学の歴史を辿りつつあった。



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 その日の黄昏時、ユーフォリアでバイトをしていた達朗はカウベルの音に振り向き、目を見開いた。 数週間ぶりに見た顔に思わず口を開きかけ、すぐに思いなおす。 そして努めていつもと同じように、いらっしゃいませ、といった。
「カプチーノ」
 カウンター席にどさりと腰を下ろしてから一ノ瀬時子は注文し、続けて、久しぶり、と同じテンションでいった。 達朗は鼻にかかるような声で、ん、とだけ答えた。
「授業はどう? 進んでる?」
 他の常連客と話をしている小夜に軽く目で挨拶をしてから、時子はそう訊ねた。 手持ち無沙汰な風に指を鳴らしながら。
「聞いてるよ、文学を教えてもらってるんだって? 相当気に入られたみたいね」
「どこが。最悪だよ、あのドS野郎。しかも成績落としたら全裸で逆立ちとかいうし」
「そのときは呼んでねー。一眼レフで撮ってあげるから」
「呼びません」
「今、なに読んでるの?」
「アフリカの印象」
「ルーセルね」
 持ってる? と聞かれたので、達朗はスタッフルームのロッカーから文庫本を持ってきて時子に手渡した。 時子は気だるげな仕草で、ページをぱらぱらとめくる。 爪の間には赤紫色の絵の具がつまっていて、一見するとまるで内出血のようにも見えた。
 目を伏せた時子の顔を密かに観察して、顔色が優れない、と達朗は思った。 目元には隈が出来ているし、少し痩せたようにも見える。



 ここ数週間というもの、時子は一度も店に顔をだしていなかった。 自分のシフトの時だけなのかと不安に思ったが小夜に訊くところによるとそうではなく、 時々こうやってぱったり姿を見せないことがあるらしい。
「創作に熱中してるんだと思うわ。大丈夫よ、恭ちゃんが付いてるから」
 安心させるかのように小夜は微笑んだが、達朗にしてみればそれは逆効果で結果、俯く羽目になる。
「……あの二人の関係って何なんでしょうか」
 時子にも垂火にも訊けないことを、達朗は小夜に尋ねた。
 おそらく切羽詰った声をしていたのだろう、小夜はふと真面目な顔になって、 レジの置かれたテーブルの引き出しからノートを取り出し、一枚の写真を抜き取った。
 背景はこの店だ。真ん中にいるのは髪の長い少女で、横には同じ年くらいの少年がいる。そして、ウェイター姿の青年。 高校生くらいの少年少女は、垂火と時子に違いない。今からは想像できないような笑顔を浮かべている。 そして達朗の見知らぬ青年もまた、微笑を浮かべていた。
「一ノ瀬くんがここにいたならって何度も思ったわ」
 そういって小夜は写真を指でそっと撫でた。
 一ノ瀬? と達朗は考え、記憶を探った。
『七年前に死んだんだ。交通事故で』
 以前、あの家庭教師はそういっていなかったか。
「この人が、時子さんのお兄さん?」
「そう。彼がいなくなったことで、二人の関係が大きく変わったのは間違いないわ。 何ていうのかしら……彼はとても影響力の強い人だったし、二人とも本当に懐いていたから」
 小夜は写真を元のようにノートに挟んで引き出しに仕舞った。
「私もね、あの子たちのことを詳しくは知らないのよ。 ただ、男女が長い時間を共に過ごして、互いを心から大事に思っているからといって、 そこから導き出される答えが必ずしも恋人同士というわけではないのよね」
「つまり友情ってことですか?」
「人の数だけ、関係性もまた様々だってこと」
「はあ」
 分かるような分からないような、微妙な気分のまま達朗が沈黙すると小夜は、知ってる? とこんなことをいった。
「孤独には二種類あってね、ひとりの人間のなかに存在するものと、人と人の間に存在するものがあるの。 そして一人の孤独よりも二人の方が良くないわ。自己憐憫もできやしないし、弁解の余地すらないのだから」
「……あの二人は後者? じゃあ、離れればいいのに」
 小夜は曖昧に微笑んだ。
「あなたが時ちゃんを大事に想ってることは知ってるわ」
「そっ……」
 恥ずかしさのあまり言い訳をしようとして、達朗は踏みとどまった。 自分で誤魔化してどうする。そんなのはくだらないプライドだ。
 目線は逸らしたまま、しかしはっきりと頷くと、小夜は満足したように笑みを深くした。
「私はあなたが時ちゃんのことを特別に想っていることを知ってるけど、それは分かるという意味じゃないわ。 達朗くんの気持ちは達朗くんだけのものであって、私にはその深さは分からない」
 何となく小夜のいいたいことを感じ取り、達朗は先ほど自分が洩らした安易な発言を恥じた。 それを見て小夜は、茶目っ気のある仕草で頬に片手を当てて溜息をもらす。
「あと二十年くらい若かったらね、私にしときなさいなっていうんだけれど」
「光栄っすね」
 と笑ってからふと、達朗は気になった。二十年?
「でも店長って三十歳くらいですよね?」
「いやねぇ、女性に年齢とダイエットの話題はタブーよ」




 パラリとページをめくる時子から目を逸らし、達郎は考えた。
 きっと、自分はいくつかのことを決めなければならない。 辛抱強くならなければならないし、思いやる気持ちを覚えることも大事だ。 一人よがりにならないよう、傷つけないよう、慎重にもならなければならない。
 けれど、具体的にどうすれば彼女の心に触れることができるんだろう? だって、あまりにもこの人は垂火しか眼中にないのだ。
 方程式や典型元素の性質なんかより、こういう時の対処法を学校で教えてもらいたかったもんだ、と達朗は出そうになるため息を飲み込んだ。







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